東西 美の出会い

日本・オーストリア文化交流の先駆け|ウィーン万国博覧会

History & Culture | 歴史・文化

オーストリア紀行

*雑誌『目の眼』2015年2月号特集〈東西の美の出会い 日本のこころ 西洋のかたち〉に掲載した記事を再掲しています。

 


日本がはじめて公式に万国博覧会に参加したのは、一八六七年のパリ万国博覧会の時だった。フランス政府からの勧誘を受け入れた江戸幕府は、開国して間もない時期に日本の文化や物産を世界に印象づけようと、各藩および百姓町民にいたるまで広く出品を呼びかけた。この呼びかけに応じたのが、佐賀藩と薩摩藩、そして江戸商人瑞穂屋こと清水卯三郎だった。

目録によると日本からの出品物は漆器、彫物細工、陶器、金銀銅器、紙類、衣服織物、書籍、図画などいわゆる工芸品に属する物品が多かった。とくに佐賀藩は、数万点を超える大量の陶器を持ち込んだ。この時の佐賀藩の団長が精錬方役人の佐野栄寿左衛門(常民)で、後に彼はウィーン万国博覧会で、日本の事務局副総裁を務めて実質的な責任者となった。清水卯三郎は物品販売だけでなく、日本風の茶店を出して、すこぶる好評を博した。パリ万国博覧会に登場した日本の浮世絵や工芸品は、フランスで日本ブームを引き起こすきっかけとなった。売れ残った出品物もかなりあったようだが、日本の存在をアピールするという幕府本来の目的は十分に達成されたであろう。

1873年 ウィーン万国博覧会場本館の風景図

1873年 ウィーン万国博覧会場本館の風景図

 

明治政府として初めての公式参加

ウィーン万国博覧会は、一八七三年五月一日から一一月一日まで半年間にわたって開催された。博覧会出品にあたって、佐野常民は、日本物産の名声を高め、日本の学芸進歩、物産増殖をはかる。輸出増加をめざし、各国の物品を調査して貿易の参考にする。博物館を創建するという確固たる目的を明示して準備に着手した。パリ万国博覧会の時には、単に日本の存在を知らしめるというのが幕府の目的であったが、成立して間もない明治政府は、殖産興業の重要な根幹の一つとして、並々ならぬ意気込みでウィーンの博覧会事業にのぞんだのである。

会場を埋め尽くした日本の産物

会場の広さは七〇万五〇一六坪(約二三三ヘクタール、東京ドーム約五〇個分の広さ)で、会場中央に博覧会場本館(メインパビリオン)が建てられた。本館は長さ約八五〇メートル。中央に高さ九〇メートル、直径一〇〇メートルの大ドームがそびえ立ち、左右両翼に主軸となる回廊が延び、そして左右両翼で主軸に直交してそれぞれ八本の翼廊が配置された。これは世界の位置を象徴させたもので、オーストリアを中心に西にある国を西側、東にある国を東側にして、最東端の翼廊に中国と日本の展示場が割り当てられたのである。

日本の展示空間は翼廊の四分の三であったが、狭かったので事務総裁に相談して、翼廊の全部を受け取ることにした。それでも場所が足りなくなり、隣のロシアの翼廊との空いたスペースにも展示した。飾り台は、現地の職工を雇って作製したり、イギリス事務局から陳列戸棚数十個を借り受けた。本館の展示場は五月一七日に半分開き、一八日に全部を開場、売店は二〇日に開いた。

博覧会会場にはパビリオンを取り囲むように庭園空間が用意され、各国が特徴ある建物をたてた。日本は、植物園を付した庭園をもうけ、入口に鳥居を立てて内部に神社、神楽殿、二軒の売店を設置した。日本庭園は五月一九日に開園し、二八日に売店を開いて漆器、陶器、銅器、織物、その他の小物を販売し、当日の来観者には茶烟草を一包ずつわたした。以来売れ行きは好調で、一日の売り上げがオーストリア通貨二〜三〇〇〇グルデンに達した。扇、団扇などは一週間に数千本を売りつくしたという。

ウィーン万博

髹漆(きゅうしつ)見本軍配形衝立 / 『目の眼』2025年6・7月号より

 

万博をきっかけに輸出事業を確立

日本からの出品物は、生糸、織物、茶、漆器、磁器、銅器、七宝、竹器、彫刻物、画、紙、蝋、革、刀剣などの製品と、鉱物、宝石、動植物などの自然産品だった。価格も記録された出品目録を見ると、たとえば東京の狩野雅信が描いた雪中ノ松の画額は、元価五円九銭、そのうち画料は七五銭。額田県(現愛知県)の渡辺小華が描いた菓菜図の画額は、元価三八円一六銭四厘、そのうち画料は五円。菊黄蜀葵絵が描かれた薩摩苗代の陶磁器の花瓶は元価五五円。高価な骨董品も出品された。金地御所の蒔絵が施された約二〇〇年前の貝桶の漆器が、売価一二〇〇フロラン(約五五二円)だった。その他、観覧者の目を引く大きな物として、名古屋城の金鯱、鎌倉大仏の紙の張子、東京谷中の天王寺五重塔の模型、大太鼓、大提灯が展示された。

日本の出品物はことのほか好評だった。イギリスのアレクサンドル・パーク会社が、神社、神楽殿、売店、庭園などをすべて購入した。これらの施設をロンドンに移築して、日本製品を販売する計画だった。ウィーンの茶商タラオも販売を申し入れた。日本政府としては予想外の商談だったが、欧米で売れる見込みができたので、製品を製造して直接海外へ輸出する工商会社を設立することにした。開国して間もない時期に外国商人が貿易をほぼ独占していたので、直輸出をする内国商人の育成は、日本政府にとって悲願でもあった。

ウィーン万博が日本にもたらしたもの

博覧会の閉会後、その成果や経験は一六部全九六巻の大部な報告書にまとめられた。さらには内国勧業博覧会が開催され、産業振興のための博物館東京国立博物館の原形も建設された。ウィーン万国博覧会の日本会場は、日本の近代産業発展の記念すべき第一歩だったのである。


 

 

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月刊『目の眼』2015年2月号

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森本和男(もりもと かずお)

1955年生まれ。明治大学大学院文学研究科博士課程修了。千葉県教育振興財団上席研究員。主な著書に「文化財の社会史─近現代史と伝統文化の変遷」、「遺跡と発掘の社会史」(ともに彩流社)などがあり、歴史のなかで文化財がどう捉えられ、どんな役割を果たしてきたかを研究している。

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