コラム
009

奈良 風のまにまに/多川俊映

不比等の仕事
中金堂発掘基壇

去る2010年、奈良・興  福寺は創建1300年を迎えた。その年を中心に前後20年、つまり、2000年~2020年が創建1300年記念事業期間で、境内の史跡整備を行なっている。――天平の文化空間の再構成、が合言葉だ。
その中核プロジェクトが18世紀初めに焼失した中金堂の天平規模・天平様式による再建で、2010年に立柱。昨年五月には上棟式を執行し、2018年秋に落慶の予定である。この中金堂の規模を分かり易くいえば、先年国により復元された平城京の大極殿と、構造は違うがほぼ同程度の大きな古代木造建築だ。もうすぐ、そんなのがまた一つ、奈良に出現する。興福寺境内は、「古都奈良の文化財」の一つとしてユネスコ世界遺産に認定されてもいるが、そもそも国の文化財保護法による史跡と名勝の指定を受けている重要な空間だ。そこで、復元に先立ち、学術的な史料の検討や発掘調査が行なわれた。そのなか、中金堂基壇の全面発掘の状況がここに掲載の写真で、本願・藤原不比等(659~720)の土木作業チームの仕事ぶりがこれで明らかになった。
興福寺は、東方に位置する春日山の西麓が張り出した丘陵地(春日野)の西南端にあり、かつては、その高台から西に平城京を眺望し、一方、平城京の中心部から東をみれば、興福寺の堂塔が望めた。つまり、平城京と興福寺との間(直線距離で3.5㎞)には、双方向の眺望性があり、また、その上、地山の地質が良く、高さ1.8mの基壇は、その地山を1.3mに削り出し、その上に0.5mのしっかりした版築を積み上げている。
氏寺興福寺のこうした寺域を定めた不比等は、もとより和銅3年(710)の平城遷都とその京造営を実質的にリードした人だから、こういう発掘調査結果にふれると、――なるほど。不比等にとって、平城京の造営と興福寺の造営はセットというかペアの仕事だったことが自ずからわかる。
写真が小さくてやや分かりづらいが、黄色味を帯びた版築土に点在する白く見えるのが礎石で、この上に柱が立つ。この礎石は66個あり、内2つだけが後補で、あとはすべて8世紀初めの天平の礎石で、微動だにしていない。げんに、この天平礎石の上に、創建と再建の中金堂が築かれたのだ。
これら基壇は、国の史跡に指定されていて保護対象だから、現在は、直接この上に再建柱を立てることはできない。が、そういう制約というか規制がなければ、これらの礎石を活用して、直接その上に平成の中金堂を建てても耐力的に問題ないらしい。
つまり、1300年前の不比等の仕事は、それくらいのものなのだ。その質の高さは圧倒的である。天平の時代性を、私は〈典雅・端正・剛勁〉という3つの言葉で言い表せるのではないかと思っているが、その具体例の一つが、他ならぬこの不比等の仕事である。

多川俊映 (たがわ しゅんえい)
興福寺貫首 「天平の文化空間の再構成」を標榜し、一八世紀初頭に焼失した中金堂の平成再建を目指している。著書『唯識入門』『合掌のカタチ』『心を豊かにする菜根譚33語』など。

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