出稽古1
「黄瀬戸・瀬戸黒・
志野・織部 ─
美濃の茶陶」展をみる
今回は「出稽古」に行ってもらいましょうか、と貴士さんから提案がありました。貴士さんが企画段階からずっと協力してきた展覧会が東京のサントリー美術館ではじまったそうで、それを見て美濃の茶陶を復習してきてください、との宿題です。
これまで黒織部茶碗『柾垣』と志野茶碗『野辺の垣』にふれて、すっかりその魅力に夢中となった私は、美濃焼の名品がたくさん見られると聞いて、喜んで六本木へと出かけたのでした。
サントリー美術館で迎えてくださったのは、展覧会の企画担当者である安河内幸絵さん。今回、貴士さんの代わりに美濃茶陶のことをやさしく解説してくださいました。
実は私、東京ミッドタウンにはお買い物によく来るのですが、3階のサントリー美術館に入るのは恥ずかしながら初体験。展示室に足を踏み入れると木をふんだんに使った展示室はどことなく和風で高級感にあふれ、ゆったりと作品を鑑賞できそうです。
「本展は400年ほど前に岐阜で焼かれた美濃焼の茶陶について紹介しています。日本のやきものの中でも極端にゆがませたりカラフルにしたりと相当に個性的なやきものなんですが、ポスターはデザイナーさんの発案で敢えてモノクロで表現してみました」と安河内さん。「街でこのポスターを見かけてすごく気になってたんです。〝しびれるぜ、桃山〟っていうコピーが印象的でずっと見たいと思ってました」
「そう言ってもらえると嬉しいです。美濃の茶陶は、これまで2回大ブレイクしています。桃山時代に一世を風靡したあと、昭和初期に荒川豊蔵さんの美濃古窯発見をきっかけとして大人気となったのですが、実は江戸時代にどれくらいの人気や評価があったのかは、あまりよくわかっていないんです」
「へえぇ、ずっと人気なのかと思ってました」
「だからといってうち捨てられたわけでは決してなく、富裕な茶人の蔵で、美濃焼は大切に伝えられていたんです。それが昭和初期のブームで一躍脚光を浴びて、そうした伝世品が近代数寄者という新たな富裕層へと受け継がれていきます。ですから桃山と昭和では、美濃茶陶の受け止められ方が少し異なる部分があって、本展ではそれを分けて紹介しています」
安河内さんの解説がわかりやすいので、前々から気になってたことを尋ねてみました。「瀬戸黒とか、黄瀬戸って、どうして瀬戸と呼ぶんですか?」
「不思議ですよね(笑)、こうした名称は江戸時代に定着するんですが、当時、美濃焼は美濃で焼かれたとは思われていなくて〝瀬戸焼〟だろうと思われていたんですね。まぁ瀬戸と美濃は山を隔てたあちらとこちらという位置関係にありますし、技術的にも繋がっていましたから当時の感覚では瀬戸も美濃も同じだという見方は間違いでは無いんですよ」とのこと。
志野や織部のコーナーに入ると、うつわいっぱいに絵を描いたものが並び、一気に賑やかに感じます。
「志野は和歌や日本文学から絵を借りる例が多く、一方の織部は当時日本に来航した南蛮人の風俗をも造形に採り入れたユニークなやきものです。この燭台は南蛮人そのものをモティーフにした珍しい作品で、横顔がフレディ・マーキュリーみたいでしょ」と安河内さん。
ホント、そっくり(笑)。
「あの、あやめ(菖蒲)の文様ってないですか?こういうところに来るとついつい探しちゃうんです(笑)」
「ああ!そうですよね、あやめ文は美濃焼にもよく描かれるモティーフですよ」といって、みんなで探しはじめ、いくつか見つけることができました。どこに描かれているか気になった人はぜひ会場で探してみて下さいね。
※この展覧会は終了しています