藤田傳三郎、激動の時代を駆け抜けた実業家の挑戦〈後編〉

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国の宝を守る、藤田傳三郎の審美眼と情熱

 

〈前編「稀代の事業家、藤田傳三郎のルーツと功績」はこちら

 

 

文化面から見た傳三郎はどのような人物だろうか。没後に制作された伝記『藤田翁言行録』の談話を要約すると、

 

「自分が美術品を愛するのは天性のもので、両親に諌められてもこれだけはやめることができなかった。大阪に出てきた明治の初めは革新の時期で、武士や御用商人神社仏閣は俸禄を失って衰退し、このため旧家社寺などで守り伝えられてきた古器名品が一気に世間にあふれ出た。しかし当時の人々はこうしたものを顧みず、いかなる名品も瓦礫に等しい扱いを受け、あるものは安価に外国へ輸出されていた。このままでは国の宝の壊滅も免れない状況にある。将来日本の国力が増せば、日本の美術に対する評価も高まってくるだろう。そこで大いに美術品を収集して、国宝の散逸を防げば、後日後悔することがないであろうと考え、私財を投じてその収集に努めたのである」

 

と、明解に述べている。現代に生きる私たちから見ると非の打ち所がなくて立派すぎるようにも聞こえるが、長州に生まれ、幕末明治の動乱のなか生きた人には、こうしたナショナリズムと公益に資するという精神が共通認識としてあったのだと思う。

 

以前、藤田清館長にもお話をうかがった際(雑誌『目の眼』2022年9月号の特集取材)、「傳三郎は自分の好き嫌いで美術品を購入することはなかったと思う」と語っている。それは例えば井戸茶碗を買うなら大井戸、小井戸、青井戸、小貫入と、その美術品のジャンルや時代の地層を丸ごと掬い上げるような求め方をしており、個人的な数寄を満たすための蒐集とは様相が違うという。もちろんスケールの大きな買い方をするので、美術商が持ち込んできたなかに自分の気に入ったものがあると喜んで、特別に箱を作らせたりして次第を整えたそうだ。また子煩悩だった傳三郎は、3人の息子たちのために同じジャンルの品を3つずつ買うということもあったという。

 

茶道は武者小路千家の宗匠・磯矢宗庸につき、当時大阪きっての粋人であった平瀬露香が立会人となって皆伝を受けた。能楽も達者で、仕舞、謡曲、清元にも通じていたという。また建築や作庭も得意で、大川の清流を臨む網島町に聚楽第をしのぐと言われた大御殿を建造した。残念ながら本邸は戦災で焼失したが、 焼失を免れた美術品と蔵は藤田美術館として昭和29年に開館し、2017年からの建て替えを経て、2022年にリニューアルオープンしている。

 

 

 


 

 

掲載号 『目の眼』2022年9月号

 

目の眼2022年9月号「藤田美術館をあるく」

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*目次・詳細はこちら(目の眼2022年9月号)

 

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