Audemars Piguet | 薄型高精度の美学

大江丈治

時計評論家

今まで何度か腕時計の「高級とは何か?」を話題にして、それは複雑機能や、精度であると説いた。それだけでなく、一部の高級時計メーカーでのみ可能だった付加価値が「薄型」である。かつて高級時計が目指した終着点は「精度」と「薄型」の両立だった。

 

誰が決めたか、時計好きの間では「雲上3大ブランド」と呼ばれるブランドがある。今日多くの新興ブランドが最高級を名乗っているが、20年ほど前まで、最高級は確かにその雲上ブランドで「パテック・フィリップ」「ヴァシュロン・コンスタンタン」そして今回紹介する「オーディマ・ピゲ」と相場が決まっていたのだ。3社は創業以来の継続された歴史と、熟練技を継承する最高レベルの職人達を擁して、時代を代表する高級時計だけを生産してきた。
オーディマ・ピゲは1875年、スイスはジュウ渓谷にある小さな村に創業した。そこはスイス時計産業の聖地の一つである。分業制で時計が作られる中、基幹部品の最高ランクのパーツが作られている所だ。そこでムーブメントを作るメーカーとしてスタートしたのがオーディマ・ピゲ社で、その創業以来の技術力を生かして、複雑機構と薄型ムーブメント両方を得意としている。

 

写真は、1940年代に半ば作られたリファレンス5029と考えられる個体である。当時のオーディマ・ピゲ社は極めて生産数も少なく、反面バリエーションがとても豊富な為、手元の資料ではそれ以上特定できなかった。しかし、VZSSと呼ばれる極薄の手巻き式ムーブメントを用いたモデルの中でも、この個体は最も高精度の8ポジション調整されたムーブメントが搭載されていた。ポジション調整とは腕時計は腕に付けた時に様々な姿勢=ポジションを取ることから、それら姿勢による精度差を小さくする調整を施すことだ。例えば机に置いた状態は文字盤が上を向いた姿勢で、これは1ポジション。普及品にはこれだけで、他のポジション調整は施されていない。高級で3ポジション、最高級ブランドでも4、もしくは5ポジション調整となる。しかし、この個体はなんと8ポジションで調整され、それが誇らしげにムーブメントの地板に彫り込まれていた。これは最高級ブランドでも、ごくごく一部にしか行われない特別な調整がなされた事を意味する。

 

時計は35mm径の小型で、ケースも薄型で実にスマートだ。スモールセコンド付のシンプルな構成で、文字盤上の秒表示は十文字にしか目盛られていない。即ち秒単位を測るのは不可能なのだ。秒まで測定できなくても、最高精度の薄型ムーブメントを搭載している。このあたりが最高級ブランドの矜持に他ならない。
オールド・オーディマの薄型手巻き式は日本で根強い人気がある。さりげない最高峰が受けるのだろう。しかし薄型は反面、ケースの防水機能に乏しく、汗や湿気に著しく弱かった。そんな事から、コンディションの良い個体には、もはやなかなかお目に掛かることはない。

月刊『目の眼』2013年11月号

Auther

大江丈治(おおえ じょうじ) 

1964年生まれ。時計評論家。大学工学部卒業後、大手化学メーカー勤務などを経て趣味であった時計業界へ飛び込む。有名ジュエリーウオッチブランド数社でマーケティングなどを担当。またスイスの独立時計師達とも親交が深い。

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