白磁の源泉

中国陶磁の究極形 白磁の歴史(2)

Ceramics | やきもの

白磁観音像 明代 徳化窯 故宮博物院(北京)蔵 『故宮博物院蔵徳化窯瓷器』51 頁

 

中国陶磁史を専門に北京大学にも留学された気鋭の新井崇之さん。中国の最新研究もふまえ、明らかになってきた白磁の歴史を教えていただきました。後編は宋代から元・明・清の白磁についてお届けします。

 

あこがれが生んだ宋代の白磁

960年に建国された宋(北宋:960~1127、南宋:1127~1279)は、五代十国に分裂していた中国をまとめ、漢族による統一王朝を築き上げた。宋朝政府は宮廷で使う什器として陶磁器を重視したため、宮廷内に瓷器庫という機関を設置し、中国各地で生産された磁器を恒常的に貢納させたのである。

 

宋代の白磁窯の中で、とくに高い評価を受けたのは定窯であった。当時の文献である『袖中錦』に、天下第一の物品を羅列した箇所があり、そこには端渓の硯や蜀の錦などと並び、定窯の磁器が記されている。宋代中期になると定窯は繁栄期を迎え、多くの人々が憧れる調度品として、市場を席巻したのである。

 

白磁長頸瓶 北宋初期 定窯 定州静志寺塔基地宮出土

河北省博物院蔵 『河北博物院基本陳列―名窯名瓷』120 頁

 

定窯白磁が広範囲にわたって流通するのに伴い、各地でそれを模倣する窯が現れた。定窯と太行山脈を挟んで西に位置する山西地域は、良質な磁土に恵まれ、薄く純白の素地を持った介休窯が勃興した。また宋朝が1127年に都を遷して南宋となって以降、定窯は金の領域となり、南宋では定窯白磁が手に入りづらくなった。そこで、南方を代表する白磁窯となっていた景徳鎮窯では、その代替品として定窯を緻密に模倣した製品が作られ、南方の定窯を意味する「南定」と呼ばれた。さらに、質の良し悪しに差はあるが、浙江・福建・広東など南方の多くの窯で白磁が生産されるようになった。まさに宋代には中国全土で白磁への憧れが最高潮に達し、各地の窯でそれぞれに工夫をこらした白磁が生み出されたのである。

 

宋は中原の広域を統治した王朝であったが、華北の一部は長らく契丹族の国家である遼の統治下にあり、さらに東北には女真族の金、西にはタングート族の西夏など、つねに国外の勢力に悩まされていた。だが周辺の諸民族にとっては、宋が生み出した先進的な文化は憧れの的であり、とくに高度な技術で作られた白磁は特別な存在であった。『遼史』巻67に、「天賛2年(923年)秋、王郁及び阿古只は燕趙を攻略し、(定窯の)磁窯務を攻め落とした」とあり、遼の戦果を称賛する文脈で、あえて定窯の攻略が記されている。定窯を支配下に置いたことは、遼にとって特別な出来事だったのだろう。定窯はほどなくして漢族に奪取されてしまうが、それでも遼は定窯のような製品を求め、主要都市の近くに窯を築いて白磁の生産を行った。とくに、遼の南京(現在の北京市)に設けられた龍泉務窯と、中京(現在の内蒙古自治区赤峰市)に設けられた赤峰缸瓦窯では、質の高い白磁が生産された。これら遼の版図で生産された白磁は「遼白磁」と呼ばれ、契丹族の美意識を反映した製品が多く作られた。

 

また、かつて西夏王朝が支配していた領域でも、近年良質な白磁を生産した窯跡が発見され、寧夏賀蘭蘇峪口瓷窯と名付けられた。その製品は純白に近い白色で、透光性が確認された。また、窯道具には「官」という文字の印が確認されたことから、西夏王朝の官窯である可能性が指摘され、中国国家文物局が選ぶ2022年度の全国考古学十大新発見にノミネートされた。残念ながら十大新発見には選ばれなかったが、西夏における白磁の生産状況を知る上で非常に重要な窯跡であり、今後の詳細な報告が待たれる。

 

後に遼と北宋を滅ぼして華北全域を統治下においた金もまた、陶磁器を自らの文化に取り入れた。とくに定窯白磁に対する思い入れが強かったようで、金の統治下において定窯の生産量は増大し、ここにきて最盛期が現出されたのである。  また、金代の白磁として取り上げておきたいのが耀州窯の白磁である。耀州窯というと、片切彫りの文様にオリーブグリーンの釉薬をかけた青磁をイメージすると思うが、実は白磁も生産していたのである。その釉色はやや翠色を帯びた深みのある白色で「月白釉」とも呼ばれ、器形も端正なものが多い。清代の陶磁研究書である『景徳鎮陶録』巻7には、耀州窯について「宋代に青磁を焼いたが、色と質は共に汝窯に及ばなかった。しかし後に焼いた白磁はすこぶる勝っていた」と記されており、耀州の白磁が高い評価を得ていたことが確認できる。

 

以上のように、宋代の白磁としては定窯が圧倒的かつ中心的な役割を果たしており、そこで完成された白磁のスタイルは各地に伝播し、中国における白磁の重要な基準になったと言っても過言ではない。そして、漢族以外の国家においても白磁は珍重され、それぞれの審美感に基づく多様な白磁が作り出されたのである。

 

 

尊ばれた元・明・清の白磁

13世紀になるとモンゴル帝国が勃興し、またたく間にユーラシア大陸の広範囲に領土を拡大させた。中国においては、1234年に金が滅ぼされ、1260年にはフビライ・ハンが中華の皇帝として即位した。元朝政府は中華を統治するにあたって、伝統的な官制などを多分に取り入れており、調度品や祭器についても前代に倣って磁器を使用した。

 

元代陶磁の特徴として、景徳鎮窯の重要性が高まったということが挙げられる。元朝の官員であった孔斉が著した『静斎至正直記』巻2には、「饒州(景徳鎮のある地域)の御土。その色は白亜の様に白く、毎年官員を派遣して器皿の製造を監督し、貢納させた。これを御土窯という」とあり、宮廷で使用するため良質な白磁を、景徳鎮窯に発注するようになったのである。また、明代初期の文献『格古要論』巻下でも、御土で作られた白磁について、「素地が薄く釉に潤いがあり、最も良い」と絶賛している。元代に景徳鎮窯で作られた白磁は、宮廷の内部を表す「枢府」銘が印押しされた作例があることから、「枢府白磁」と呼ばれることもある。さらに、宮中の機関を示す「太禧」「東衛」といった銘が印押しで施されたものがあり、これらの白磁が宮中で使用されていたことは明らかである。元代を代表する陶磁器というと、青い絵付けが鮮やかな元青花を思い浮かべるかもしれないが、当時の宮廷では青花よりも白磁の方が重要な役割を担っていたようである。

 

白磁盤(内壁に「枢府」銘) 元代 

景徳鎮窯 故宮博物院(北京)蔵 『故宮博物院蔵元代瓷器』85 頁

 

宮廷で白磁を用いる習慣は、次の王朝である明(1368~1644)にも引き継がれた。『明太祖実録』巻27によると、明の初代洪武帝(在位1368~1398)は、「古の人は祭壇を掃き、祭器には陶を用いることで、倹朴の意を示した」と述べ、宮中で用いる祭器をすべて磁器で揃えるように命じた。この際に用いられたのも白磁であったと考えられ、儒教的美徳を体現する什器として珍重されたのである。この頃の宮廷ではあまり青花は使われておらず、むしろ『格古要論』巻下などでは、「景徳鎮には青花や五色の文様もあるが、甚だ俗である」と書かれており、明初期の知識階層たちは絵付けのある磁器をあまり好んではいなかったようである。

 

明朝の最盛期を現出させた永楽帝(在位1402~1424)の時代には、青花や単色釉など陶磁器全般の質が高まるが、とくに白磁の質は究極の域に到達した。この頃に宮廷で用いた磁器は、もっぱら景徳鎮に置かれた官営窯場である「御器廠」で生産され、潤いがあり温かみを持った白磁は、後世に「甜白」と呼ばれて珍重された。実際に1980年代の御器廠遺跡の発掘では、永楽地層から出土した磁器片の98%が白磁であったと報告されており、宮廷内で用いる磁器が白磁中心であったことを裏付ける。

 

そんな白磁に対する永楽帝の言葉が、『明太宗実録』巻60に記録されている。これによると、ある時西アジアから白玉の碗が献上されたが、永楽帝は受け取らず、礼部に命じて引き取らせたようである。この理由について、永楽帝は「朕は朝夕中国の磁器を用いており、それは潔素(質素で潔白な様子)かつ瑩然(明るく光り輝いている様子)であり、とても我が心に適うので、玉の碗は必要ない。ましてこのような玉は今内府の倉庫にもあるが、朕が進んで用いることはない」と述べたことが記されている。永楽帝は、白玉よりも甜白磁器を好んでいたのである。中国では古来より、玉が最高の素材と見なされていたが、ここに来て白磁が玉を超えたと言えるだろう。永楽年間の宮廷において白磁が珍重されていたことを示す象徴的なエピソードである。

 

明代には、景徳鎮窯が圧倒的な質と量により陶磁市場を席巻したが、それに次ぐ白磁として当時から高い評価を受けていたのが福建省の徳化窯である。徳化窯は透光性が高く、まさに玉のような質感と、温かみのある淡黄色を帯びた独特の白磁を生み出した。とくに観音菩薩などの塑像と、煎茶に適した茶器の評判が当時から良く、ヨーロッパにも輸出され現地の窯業に大きな影響を与えた。

 

1644年に明が滅んだ後、中華の統治は満洲族の王朝である清(1616~1912)に継承された。大多数の漢族を支配するため、明朝の旧制を踏襲し、磁器生産についても景徳鎮にあった官窯を再興する。清代の陶磁器というと白磁のイメージはあまりなく、代表的な陶磁器として、西洋から伝わったエナメル顔料で絵付けした琺瑯彩が思いつくかもしれない。だが、琺瑯彩の彩色を最大限に引き出すためには、白さを極限まで追求した白磁が必要であった。清代官窯における規則を記した『焼造瓷器則例章程冊』には、白磁の種類として「填白」という語句が散見する。『景徳鎮陶録』巻2によると、「いわゆる填白とは、純白の器で図案を描くことができるものである」とあり、上絵付けを前提とした良質な白磁を「填白」と呼び、特別視していたことが確認できる。

 

また清朝は、中国歴代王朝の陶磁器を集大成するかのように、各時代の窯で作られた様々な陶磁器を景徳鎮官窯で模倣させた。白磁については、とくに定窯の白磁と明代の甜白を模倣した製品が盛んに作られた。定窯と景徳鎮窯、この2つの窯が中国における白磁の代表格であったことを、清朝政府はちゃんと理解していたのである。

 

倣甜白僧帽壺 清代雍正年間 景徳鎮窯 

故宮博物院(北京)蔵 『故宮博物院蔵文物珍品大系 顔色釉』126 頁

 

以上のように、清朝政府にとっての白磁とは、上絵付を施すためのキャンバスとなる白磁か、歴代の器物を模倣した復古的な白磁という、主に2つの目的意識に基づいて作られた。その目的のために、景徳鎮官窯では宮廷から派遣された官員のもとで様々な工夫が行われており、これにより清代特有の洗練された白磁が生み出されたのである。

 

 

おわりに

ここまで、中国における白磁の歴史を簡単に見てきた。中国陶磁というと、雨上がりの青空のような青磁や、精緻に描き込まれた青花など、鮮やかな色で彩られたやきものをイメージしやすい。しかし、隋代以降の中国陶磁史において、おおむね本流であり続けたのは白磁であった。中華文明の先進性を体現した素材として、また儒教的な徳目を備えた什器として、あるいは祭礼において天と人を結ぶ祭器として、白磁は多くの思想をまといながら、長い中国の歴史の中で様々な役割を果たしていたのである。

 

私が北京に留学していた頃、あるベテランの鑑定家から、「白磁は多くの陶磁器のベースであるから、白磁の微妙な色と質感の違いを見分けられるようになれば、他の陶磁器も深く理解できるようになる。つまり、中国陶磁において白磁は王道にして究極である」と教えてもらったことがある。本稿を執筆していて、この言葉の意味を再確認したような気がした。白磁は一見単純に思えるが、実は非常に奥が深い陶磁器なのである。

 

 

〈主要参考文献〉

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月刊『目の眼』2023年7月号

Auther

新井崇之

1987 年長野県生まれ。2012 年~ 2015 年中国政府奨学生として、北京大学で中国陶磁器の考古発掘に携わる。2018 年明治大学で博士(史学)学位取得。文献史学と美術史学の手法を用いて中国陶磁器の研究を行う。2020 年小山冨士夫記念賞奨励賞受賞。2022 年より町田市立博物館学芸員。

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