正宗の風 相州伝のはじまり

“用と美”の革新、名刀匠正宗の後継者・正宗十哲が繋ぐ相州伝

Armors & Swords | 武具・刀剣

 

東京・両国にある刀剣博物館の学芸部長の石井彰さんに、2024年新春に刀剣博物館とふくやま美術館(2024年2月18日〜3月27日)で開催される特別企画展「正宗十哲 ー 名刀匠正宗とその弟子たち 展」の見どころと、名刀匠正宗の後継者と呼ばれる正宗十哲についてお話をうかがいました。

 

 

石井 彰(刀剣博物館学芸部長)

 

 

 

❖正宗以前、正宗以後

 

── 展覧会の概要について教えてください。

 

石井 刀剣には詳しくないけど、「正宗」という名前は聞いたことがある、という方は多いと思います。それくらい広く浸透している超有名人ですが、実はわかっていないことも多い謎多き刀工です。これまで正宗を単体で採り上げた展覧会はいくつかありましたが、その後継者とされる「正宗十哲」に挙げられたすべての刀工を総覧した展覧会はなかったので、これらを一堂に集めたら見えてくるものがあるのではないか、と企画しました。本展では正宗十哲を中心に据えて鎌倉〜南北朝までの展開に絞っていますから、正宗だけでなく、その先人たちへと源流を辿るような見方もできますので、相州伝の流れを理解しやすいのではないかと思います。

 

── 正宗以前、正宗以後で、刀剣の世界で何が変わったのかが見られるわけですね。

 

石井 そうですね、正宗十哲の刀工のなかでも、正宗の作風に影響を受ける前の作と、受けた後の作ではまったく異なるものがありまして、それを実際に見比べることができるのはおもしろいと思います。

 

 

❖相州伝の“用と美”の革新

 

── ストレートにお聞きしますが、正宗によって日本刀の何が大きく変わったのでしょうか?

 

石井 端的に言えば、刃文の様式でしょうか。あえてざっくりと言いますが、それまでの刃文は、大和・山城の直刃、備前の丁子、もしくは平安末〜鎌倉初期の小乱れに大別できました。それが正宗の出現によって、のたれを主調とした刃文が登場し、また沸を全面に表した沸出来という作風が完成・展開された。刀剣の歴史から見ると、これまでになかった新たな伝法が生まれたわけで、それを相州伝の完成と捉えています。

 

── 素人質問で恐縮ですが、それは単に刃文のデザインというか美意識が変わった以上の、大きな意味を持つものなのですか?

 

石井 よく言われるのは、機能面での向上が図られたということです。正宗が活躍した鎌倉末期の状況を広く見てみますと、文永十一(1274)年と弘安四(1281)年の二度に亘る蒙古襲来(元寇)という痛烈なショックを経験したことで、防備体制強化の一環としてより斬れる刀剣、より実戦に適った刀剣の需要から製品改良に至ったことが考えられます。つまり、それまでの国内戦における兜と鍛鉄製の小札を使用した甲冑に効果を発揮した刃肉(平肉)のよくついた蛤刃では蒙古兵が着用した皮革の鎧(衣袴)には十分に機能しなかったそうで、革を鋭く斬り裂くべく改良され、刃肉が薄めになり鋒も幾分延びた形状が鎌倉時代末期頃より現れるようになりました。この刃肉を薄くしたことによって焼入れ時の温度上昇が速まり、結果としてそれまでと比較して沸が強調された作品が多く出現し始め、匂出来またはさほど沸付きの目立たない刀剣から、沸本位の刀剣が概ね南北朝時代を通じて主流となった一因と考えられます。つまりこの当時「用」としての武器である日本刀の機能性向上を追求した結果、一つの経路として沸出来の刀剣に辿り着いたとも考えられますね。

 

── 甲冑を打ち割る刀剣から、切り裂く刀剣へと、刀剣の構造がより実戦向きに進化したわけですね。

 

石井 あと相州伝に用いられた地鉄が、景色の現れやすい素材だったということもあるようです。この辺りについては、地鉄の肌模様や沸つきの様相が安綱や真景など、時代の上がった平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての古伯耆物の作柄に通じることから、正宗や則重がこの一派の作風を参酌した可能性を指摘する見解もあります。

 

── 戦法の変化、素材の変化によって武器もまた変化するのは必然ですね。

 

石井 もちろん時代の気分という要素も大きいと思いますよ。この時代、蒙古襲来から鎌倉幕府が弱体化して、荘園領主や幕府に従属しない武士たちが「悪党」と呼ばれ近畿地方を中心に暴れ回るようになります。後醍醐天皇は楠木正成などの悪党や、足利尊氏や新田義貞といった幕府に対する不満分子の御家人を味方につけ政権を打倒し、南北朝という半世紀に及ぶ動乱の時代に突入します。つまりそれまでの価値が崩壊し、別の視点から新たな価値が創り出される時代となりました。その結果、南北朝時代には派手に見栄を張ってそれまでの常識から逸脱したり、奔放で人目を引くような行いを好む「婆娑羅」という新興勢力が台頭します。刀工たちの世界でも機能面の追求もしつつ、作刀において新機軸を打ち出すべく、それまでにあまり見られなかった刀剣の大型化や、露わな沸出来の作風が全国的に急拡大していく大事な要因として、こうした当時の気風も影響していると思います。

 

 

❖正宗十哲の意義

 

── そうした気風のなかで、新機軸の正宗スタイルに反応したのが正宗十哲たちということですか。

 

石井 現在、十哲として挙げられている刀工は、山城の来国次・長谷部国重、美濃の兼氏・金重、越中の江(郷)義弘・則重、石見の直綱、備前の兼光・長義、筑前の左が挙げられています。ただし古剣書を遡って見ると、この人選には揺らぎがあることが先学によってわかっています。現在のかたちとなるのは、天正七年(1579)に竹屋理庵が作成した『秘伝抄』を土台として慶長十六年(1611)の『古今銘尽』で概ねの大系が出来、最後に本阿弥系伝書で十工が出揃います。

 

── 相州からは遠隔地の人ばかりですね。弟子というわけではないのですか?

 

石井 正宗から直接手解きを受けたわけではなく、正宗もしくは相州伝の刀剣を見て、その要素を多分に作品制作に取り入れたという考え方が主流です。事実、十哲に挙げられた刀工たちも、ある時期から相州伝風の刀剣ばかりを作ったわけではなく、それまでの作風のものも同時進行で作っています。

 

── 刀剣はそれまで、地域に根ざした職人集団が連綿と一族に技を伝えてきたと思っていたのですが、他国のそれも新参の刀工の作風を真似てよかったのでしょう。また、どうやって情報を得たのでしょうか?

 

石井 そこが相州伝のおもしろいところですね。先に説明したように鎌倉末から南北朝は動乱の時代で、多くの武士団が東北から九州を転戦してまわり、人と情報が錯綜しました。あくまで推測ですが、その過程で鎌倉の武将が持つ最新スタイルの相州伝を、遠征地の刀工が手にして見る機会があったのか、あるいは「こういう刀を作れ」という命令があったのかもしれません。時代の変わり目ということもあり、刀工の移動もあったようです。さらに、正宗の子あるいは養子と伝えられる貞宗や、同国の広光は十哲からは除外され、相州本国以外の他国の工に限定することで、正宗によって完成された相州伝が遠隔地の刀工に与えた影響の大きさ、また相州伝を完成させた正宗の偉大さを間接的に物語るものといえますね。もちろん、正宗の作品が数ある刀剣のなかでも出色の出来で、他工の追随を許さない芸術性の高さを誇っているのは事実であり、現代に至るまで傑出した名匠として評価されています。

 

 

(左)重要文化財 短刀 銘 兼氏/東京博物館蔵

(中)特別重要刀剣 脇指 銘 長谷部国重 文和22年8月日/個人蔵

(右)国宝 短刀 銘 来国次/個人蔵

 

 

展覧会情報

特別企画展「正宗十哲 ─ 名刀匠正宗とその弟子たち─展」

ふくやま美術館

2月18日(日)〜3月27日(水)

開館時間:9時30分~ 17時

休館日:月曜日

観覧料:一般1000円 高校生以下無料

 

 

『目の眼』2024年2月号〈相州伝のはじまり〉

Information

特別企画展「正宗十哲 ─ 名刀匠正宗とその弟子たち─展」

名称

特別企画展「正宗十哲 ─ 名刀匠正宗とその弟子たち─展」

会場

ふくやま美術館

住所

広島県福山市西町2- 4- 3

URL

TEL

084-932-2345

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