銀仏手

多川俊映

興福寺貫首

6世紀中頃、朝鮮半島の百済国王が日本に使節をおくり、仏像や経論をもたらした。これがいわゆる仏教公伝で、その仏像は『日本書紀』によれば、「釈迦仏金銅像」だった。

いわば、金ぴかの造形物——。

 

当時の人々は、伝統的な日本の神観念から、それを「蕃神(あたしくにのかみ)」つまり他国の神で、「仏神(ホトケという神)」と受けとめた。元来、日本の神はスガタ・カタチをもたないから、これに接した人々の驚きは想像を絶するが、他方、こうした明確なイロとカタチをもった仏像はきわめて印象的でもあり、しだいに日本人に受容されていった。ここに、イロとカタチをめぐる日本人の、矛盾的自己同一がみられるかもしれない。

 

それはともかく、ほぼ半世紀にわたる仏教受容の是非をめぐる論争に終止符を打ったのが、推古2年(594)の「三宝興隆の詔」。それ以降、おびただしい数の仏像が造られたことは、人のよく知るところだ。また、その素材もさまざまで、当初は銅造や塑造あるいは乾漆造などが多かったが、比較的近場に彫像に適した良質の檜材が豊富にあることから、しだいに木彫が主流になった。が、いずれにせよ、とくに如来形の本尊の場合は、鍍金や金箔が施された。

 

それはいうまでもなく、仏陀の像容を示す三十二相のひとつ・金色相に由来する。古来、仏陀の身体は「」、つまり、紫色をおびた黄金いろだったというのだ。——のやはらかなる透きたり。などといわれる(『栄華物語』)。ちょっと下世話にいえば、なんともいえない深みのある小麦色で、しかも透けてみえるような肌か。

 

だからでもあろう、素材が銀の仏像はほとんどない。あるいは、銀造鍍金では、いくらなんでも金と並び賞される銀に対して失礼なのか——。銀仏の現存唯一の作例は、天平期の東大寺法華堂本尊の宝冠化仏だが、これとて像高1尺に満たない小さなものだ。しかし、実はかつて、6尺余りの大きな銀仏が在ったのだ。掲出の写真は、その銀仏の臂から先、手のひらまでの残欠である。

 

興福寺の東金堂が保存修理中だった昭和12年(1937)10月29日(寺務所日誌)、本尊台座の内に旧本尊の頭部が安置されてあり、大騒ぎになった。これがいわゆる白鳳期の名宝「仏頭」の発見であるが、仏頭を載せた台箱の中から発見されたのがこの銀造仏手で、立ち会った人たちは二度ビックリしたらしい。

 

それはそうだろう、この純銀の仏手の寸法がほぼ1尺で、臂には衣の端が少し残る状態なのだ。完好ならば、立像で6尺8寸前後と推定されるから、発見者たちが仰天したのも無理はない。由来ははっきりしないが、寺蔵文書に純銀仏像の記載もあるから、興福寺にかつて銀仏があったことは間違いない。

 

俗にいぶし銀というが、にび色の銀の質感に、あるいは、釈迦の古道を想ったか。

月刊『目の眼』2015年6月号

Auther

コラム|奈良 風のまにまに 3

多川俊映 (たがわ しゅんえい)

興福寺貫首 「天平の文化空間の再構成」を標榜し、一八世紀初頭に焼失した中金堂の平成再建を目指している。著書『唯識入門』『合掌のカタチ』『心を豊かにする菜根譚33語』など。

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