日本橋・京橋をあるく

特別座談会 骨董街のいまむかし

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日本橋・京橋界隈は、数多くの老舗が立ち並ぶ歴史ある商いの街。

一般にはあまり知られていないかもしれないが、実は古美術店や画廊が100店近く存在する日本最大規模の骨董街でもある。

東京の日本橋・京橋界隈に何故これほど大きな骨董街が形成されたのか、長く骨董街を見てこられた代表的なお店のご主人お三方にお話しを伺いました。

 

 

参加者◎写真左から 三谷忠彦(三渓洞社長) 飯田國宏(飯田好日堂社長) 瀬津吉平(吉平美術店主人)

 

骨董街のむかし

 

—— 東京の日本橋・京橋界隈に何故これほど大きな骨董街が形成されたのか、長く骨董街を見てこられた代表的なお店のご主人お三方に教えていただこうと思います。

 まずはどこまでさかのぼれるのか、歴史に詳しい飯田さんから、お話くださいますか。

 

飯田 日本橋・京橋は徳川家康の江戸入り以来、積極的に街づくりが行われ、江戸時代を通じて中心的な繁華街でした。この地域にはいまも多くの老舗や大店が長く商いを続けております。そのなかで骨董・古美術を扱う店が多いのは、広く言えば現在の神田駅から銀座にかけての地域ですが、もう少し絞りますと、南は現在ジャンクションとなっている京橋の北側から北は日本橋の南側まで、西は東京駅の八重洲口の前を走る外堀通りから東は昭和通りまでの地域(地図参照)に特に集中しています。

 

大正期の日本橋・京橋界隈の骨董街の様子

 

—— 外堀通りは当時、川だったんですよね。

 

飯田 ええ、文字通り、江戸城の外濠でした。そこから東へ向かうと中央通り、仲通りを経て昭和通りへと至ります。この昭和通りは関東大震災後に拡張されました。北は日本橋川、南は京橋川が流れていましたから、この川で区切られた地域が、いま骨董街と呼ばれているところです。

 

—— 江戸時代はどんな街だったのですか?

 

飯田 このあたりは大名屋敷に挟まれた町人街で、多くの職人や商人が住み、店を開いていました。とくに北側の、現在の髙島屋があるあたりは古着屋が多かったようです。江戸期の古着屋はとても大きなビジネスで、着物や古布に混じってくるさまざまな古物も扱っていました。古着屋から骨董商へ変わったという店も少なくなかったようです。

 

瀬津 そうなんですか

 

飯田 道具屋さんのなかでも一番古いと思われるのは、中央通りにあった「ほりつ」さんで、享保年間創業といいますから相当古いですね。現在は麹町に移られ「ほ里つ茶道具舗」として続けておられます。

 

瀬津 憶えてますよ。ボクが日本橋に出てきたころはまだありました。

 

飯田 他に歴史があるのは「大善」という店が現在のくりはらさんの場所にありまして、伊丹善蔵という人がご主人でした。また現在ブリヂストン美術館のある中橋和泉町にあった「中村好古堂」さんは文化年間に富山で創業された老舗です。いま東京美術倶楽部は三谷さんが社長を務めておられますが、東京美術商協同組合の理事長が中村さんですね。

 

 

多士済々の美術工芸の街

 

瀬津 飯田さんのお店の近くに安藤広重住居跡という碑がありましたね。

 

飯田 ええ、大鋸(おが)町といっていまの京橋一丁目のあたりに住んでいました。そこは中橋狩野家といって幕府御用絵師、江戸狩野家の本家なんですよ。

 

瀬津 あ、そうですか。

 

飯田 狩野家はこのあたりに集中していて、狩野探幽の鍛冶橋狩野家もありましたし、昭和通りを越えたところには木挽町狩野家も屋敷を構えていました。

 

三谷 骨董屋だけじゃなくて、錚々たる絵師も居た美術と関係が深い街だったんですね。

 

瀬津 箔屋(はくや)町という町名も見えますが、金箔銀箔を生業(なりわい)にしていたんでしょうね。

 

飯田 ええ、他にも鞘(さや)町とか具足(ぐそく)町、塗師(ぬし)町、鍛冶町、大工町、桶(おけ)町という町名が残っていて、そんな職人たちが集まっていた工芸の街だったようです。私の店も、前田南斎という有名な桑樹匠(くわじゅしょう)が住んでいました。桶町には千葉道場もあったんですよ。

 

—— あの有名な剣術道場ですか?

 

飯田 ええ、坂本龍馬が通った道場ですね。

 

飯田 「繭山龍泉堂」は明治38年創業で当初は銀座でしたが、大正9年に京橋の現在地へ移ります。「壺中居」は大正13年創業ですが、日本橋へ移ってきたのは昭和48年です。その後も日本橋・京橋には書画骨董を扱う店が増えて現在は百軒ほどになりました。

 

瀬津 大正時代には魯山人も大雅堂を出店してますね。

 

飯田 現在の「魯卿あん」の場所です。その二階で美食倶楽部をはじめ、星ヶ丘茶寮へと繋がっていくわけです。そこでこの写真なんですが、これは大雅堂の向かいにあった一貫堂という茶葉店の娘さんを写したもので、当時の魯山人の店の様子がわかる貴重な一枚です。しかもこの写真が撮られたのは、大正12年9月1日の関東大震災当日ということもわかりました。

 

魯山人が開いた大雅堂美術店。関東大震災直後の写真で、瓦は乱れ木材で補強されている。

写真提供:飯田好日堂(上下とも)

 

仲通りでは馬も使われていた

 

—— ものすごく貴重な歴史的瞬間じゃないですか。

 

三谷 人通りも多くて、そんな深刻な状況には見えませんね、記念写真なんか撮って。

 

飯田 のんびりしたものですね。でもよくみると、瓦はガタガタで、木材で店を支えています、店先には「飲料水アリマス」の貼紙も見えます。

 

瀬津 本当だ。

 

飯田 直後はまだ残った家も多かったのかもしれませんが、この翌日、この辺りは大火事に見舞われます。

 

—— じゃあ骨董街も……。

 

飯田 ええ、丸焼けです。一貫堂の裏には「まるや」という魯山人が出させたスッポン料理屋がありましたし、その近くの「鴻巣レストラン」という大きなレストランの看板も魯山人が彫ったようですが、なくなってしまいました。

 

瀬津 桃太郎団子という店もあったよね。

 

飯田 桃太郎団子は明治の初めからあったようですね。それから繭山龍泉堂の裏に「小満津」(こまつ)という有名なうなぎ屋があって、うなぎが焼けるまで二時間くらいかかるから皆で龍泉堂へ骨董を見に行ったという話もききました。それから「笹屋」という居酒屋があって、骨董屋で酒器を買った客がさっそくここで使って自慢しあってたらしいですね。

 

瀬津 しかし、よく知ってますねえ。

 

飯田 こうした資料や手描きの地図を柴田桂作さん(編注:昭和初期に活躍した美術商で、引退後松永記念館の主事を務めた)が残してくれたからなんです。柴田さんのおかげなんですよ。

 

 

日本橋の街づくりに携わった三谷家

 

飯田 次に日本橋では、髙島屋の裏の太陽生命のあるあたり、益田英作(鈍翁の弟)の「多門店」がありました。その通りを挟んだ向かいに「神通古玩堂」がありました。神通さんは後にご兄弟の静玩堂さんも日本橋に店を出されましたが、青山に移転されました。あと髙島屋の場所にあった「東美倶楽部」というのは、東京美術倶楽部とは直接関係ない団体で、一時期、田安徳川家の入札などが行なわれました。

 

—— 日本橋といえば三渓洞さんも相当歴史がありますね。

 

昭和7年頃の三渓洞 写真提供:三渓洞

 

三谷 うちは三代将軍の家光の頃に初代三谷勘四郎が伊勢から江戸に出てきて、両替商を開業したのが始まりです。当時の店の場所は「駿河町角店」という記録がありますので、現在の日本橋室町二丁目あたりだと思います。この頃に江戸の町づくりが盛んになってきた様で、うちの店の近辺には同じ頃に創業されたお店や会社がまだ何軒も残っています。店の向かいにある佐々木印店さんも、三代将軍の時からの御用達でした。

 

飯田 三谷家は三井家と肩を並べるような大店だったんですよ。実際、三井家と三谷家が腕相撲している浮世絵があるんです。

 

三谷 明治に入って質商兼美術商を始めましたが、大正6年に日本橋室町四丁目の現在地に移転して、「三渓洞」という店名で美術商専業となりました。

 

飯田 当時の質商は商いが大きくて、美術工芸品もたくさん扱っていたんです。そこから美術商が生まれてくるんです。

 

三谷 私の父は、もとは三谷家の親戚筋に当たる家の三男で、サラリーマンだったのですが、昭和20年に亡くなった十代目の遺言をうけて戦後三谷家に入ったのです。三谷家も関東大震災では被害にあいましたが、戦後は幸いにも焼け残りまして、住むところがない親戚や知人などが集まってきたんですね。それだけの人を養っていくにはサラリーマンでは厳しくて、また先代からの番頭も戻ってきましたので、美術商を再開することにしました。

 

瀬津 その番頭さんから聞いたことがありますが、戦後は売れて売れて売れて、食事する間もないほどの繁盛ぶりだったそうですね。

 

三谷 モノのない時代でしたからね、モノを売って現金を得たい人と、お金はあるけどモノがなくて困っている人が、うちにやって来たんですね。ですから、その頃は美術商なんてものではなかったのではないでしょうか。

 

 

戦後の風景

 

飯田 このあたりでは吉平さんがいま最長老だと思いますが、瀬津雅陶堂に入られたのはいつ頃ですか?

 

瀬津 戦後すぐですよ、昭和22年くらいかな、私は16歳でした。

 

—— 京橋はどんな様子でしたか?

 

瀬津 一面の焼け野原ですよ。更地ばっかり。

 

飯田 何年ほど修行されたんですか?

 

瀬津 18年です。

 

—— 長いですね

 

瀬津 いやいや、修行なんて……でも振り返ると、景気が良かったから面白かったですね。

 

瀬津 独立しようとは思っていなかったんですけど、昭和40年に銀座二丁目で店を開きまして、47年に銀座から京橋の現在地に移りました。あの当時は雅陶堂のほかには、飯田さんの店の前に不言堂と、少し京橋よりに水戸幸商会がありましたが、そこからは繭山さんまでなにもなかったですよ。

 

—— そうなんですか。

 

瀬津 だから京橋に開店するにあたって、繭山さんに挨拶に行きました「ここで商売してよいでしょうか?」って。そうしたら繭山順吉さんが、どうぞどうぞ ! と言ってくれたのを憶えてますね。

 

飯田 この仕事はたとえ隣に出されても扱っているものやジャンルが違いますから大丈夫なんです。ライバルでもありますが、大事な仕入れ先でもあり、売り先でもあるんですね。たとえば龍泉堂にお茶道具を売りにきたお客さんに「この先に飯田好日堂という店があるからそっちがいいですよ」って紹介してくれたりね。

 

—— 良い時代ですね

 

飯田 ええ、でも途中に骨董屋がだんだん増えて、すっかり廻ってこなくなりましたね(笑)。

 

瀬津 飯田さんの店には三井さんところから出た良い品がありましたからね、私も結構売ってもらいましたよ。

 

飯田 ウチの先代はよく、「骨董屋は仕入れてきたものをその日のうちに売らないと魚屋と一緒で鮮度が落ちるんだ」なんて言ってました。それだけモノが動いた時代なんですね。

 

瀬津 お客さまも熱心な方が多かった。大倉亀さんなんてモノが好きで好きで、毎日骨董街を廻ってました。「お前たちは俺のところへ何も持ってこないからこっちから来たんだ」と言っておられましたね(笑)。私がまだ雅陶堂で働いていたとき、おじが松永耳庵さんに良いものを売ったんです。それを知ったらしく、ある日店にやってきて「お前のところにあんな良いのがあったんじゃないか、何でおれに見せに来ないんだ ! 」と怒鳴るだけ怒鳴って帰られたことがありました。いまはそういう人がいなくなりました。

 

飯田 時代が変わったこともありますが、昔は日本橋・京橋にも生活のにおいがあったんですね。この街に職人も商人も芸術家も資本家も居て、人々が密接に関わっていました。だからここに骨董街が成立したんでしょうね。

 

—— ありがとうございました。

 

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