茶の湯にも取り入れられた欧州陶磁器

阿蘭陀と京阿蘭陀

Ceramics | やきもの

左がシノワズリと呼ばれる、中国陶磁風の文様が描かれた、17世紀の特徴的な阿蘭陀焼の水瓶。右は18世紀の阿蘭陀焼の壺。[木雞蔵]

 

日本の心を映すヨーロッパの器。16世紀、ヨーロッパとの直接交易が始まって約500年。その間に、様々なものが日本とヨーロッパの間を行き交い、新たに色々なものが生まれました。東西の出会いが生んだ美を、陶磁器を中心にご紹介します。

 

 

ぐい呑みと書かれているが、元々は化粧品や医薬品のクリーム入れを盃に見立てたもの。人気商品だ。木雞蔵

 

 

群雄が割拠した日本の戦国時代は、一方で多くの金山・銀山が開発され、空前のバブル景気に湧いた時代でもあった。インドに進出してその噂を聞きつけた西欧列強国は船団を派遣して日本へ向かう。戦国日本と大航海時代の西欧が出逢ったのは、ある意味必然であった。

 

こちらはイタリアのマヨリカ焼風のデザインの阿蘭陀焼。木雞蔵

 

 

 

最初に日本との交流を持ったのは、ポルトガル・スペインというキリスト教でいう旧教国だったが、関ヶ原合戦の直前にオランダ船「リーフデ号」が日本に漂着、船員のウィリアム・アダムスらを徳川家康が引見したことがきっかけとなり、江戸幕府の外交はオランダやイギリスという新教国へも開かれた。その後、鎖国政策をとった幕府だが、オランダとの貿易は認められ、約二百年にわたって続いた。これによって江戸期の日本にも多くの西欧文物が入ってきた。その代表的な一つが阿蘭陀焼だ。オランダが中国陶磁の影響で作ったデルフト焼がその中心だが、イギリスやフランスで焼かれた陶磁器も阿蘭陀焼として入り、茶の湯の道具にも用いられるほど珍重された。後には古染付のように日本からの注文で焼かれた器もあったという。

 

 

 上の三点が江戸期に輸入された古渡りの阿蘭陀焼。

右端は理髪店で使うひげそり用のクリーム入れだが、日本の茶人が香炉に見立てて使ったものか火屋が添えられている。真ん中は鮭をかたどった皿。古染付の魚形向付を模倣したものだろうか。背びれに孔が空いていて、欧州では壁にかけて使っていたようだが、箱書きによると酒肴の器として使っていたようだ。また左は白釉の瀟洒な水盤。これは水指に使われたようで、塗蓋が添っていた。

 

 

 

やがて、幕末に入ると、今度は日本の職人が阿蘭陀焼を写して、後に京阿蘭陀と呼ばれる品々を焼き始める。この時期、欧州では銅版転写の技術があったが、京阿蘭陀の多くは手描による労作。そこには中国や日本、ヨーロッパのさまざまな文様が混じりあい、世界の海をめぐったやきもののDNAが見て取れる。

 

日本の職人が阿蘭陀焼を写した京阿蘭陀の数々。銅版プリントのようにも見えるが一つ一つ手描で丁寧に描かれた労作。

右端の壺は遊環で、窓には西洋人が描かれている。隣の急須の人物像も秀逸だ。また奥の奇妙なかたちは液体を蒸留するための器で、蘭引(らんびき)と呼ばれるもの。

 こうなると、どちらが本歌か、写しか、などという問いは無粋だろう。海老屋美術店蔵

 

 

 

協力:海老屋美術店 / 木雞

 

 

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