春日名号

多川俊映

興福寺貫首

古典的神仏習合論者――。小生個人を端的に自己紹介するなら、こうなる。だから、もし時代を選んでタイムスリップができるなら、迷わず鎌倉・室町の中世、または、それにつづく近世初頭の神仏習合華やかなりし奈良を希望する。

 

そこは、神といえば仏・仏といえば神の、混然一体の世界だ。むろん、そうでありながらも、それを「神」として示す場合、少なくともお顔の描写は憚られたのであり、一方、「仏」として示す時は、それぞれ想定された本地仏の像容が克明に描かれた。そして、そのいずれもが尊いこととして受け止められた。

 

『春日権現験記絵』は、そんな時空の気分を濃密に感じさせる絵巻だ。たとえば、巻六の第一話、興福寺の舞人・狛行光が春日明神の案内で地獄をめぐる有名なくだりは、春日の神を衣冠束帯の後姿で描き、その表情を窺うことはできない。が、巻十二の第二話では、地蔵菩薩が牛車の窓から微笑むお顔を見せており、それがまた、いかにも印象深いのだ。

 

この地蔵は、春日興福寺の奈良に特有のいわゆる「春日地蔵」で、春日社の五所明神(本社四宮と若宮)の総のスガタを地蔵菩薩の像容で示したものだ。
よく末世というが、仏教の理解では当時も今も、過去仏の釈迦と未来仏の弥勒との間の「無仏」の時代だ。そして、そういう無仏の中間にあって、いのちあるものたちを救済するのが地蔵菩薩で、その誓願は、人々の苦厄を代わりに受け止めるという「代受苦」だ。
春日神の菩薩号は「慈悲万行菩薩」というが、地蔵はその称号にふさわしい本地仏で、もとより、五所明神はそれぞれの本地仏が定められているが、それらを集約する形で、地蔵の像容が用いられたのも故なしとしない。

 

いずれにせよ、だから、「南無春日大明神」とか「南無慈悲万行菩薩」の春日名号が床に飾られてあれば、春日興福寺僧徒も春日神人も、檀越の藤原貴族も、そして、奈良の町衆も皆、地蔵の尊容を心のどこかで意識して拝したのだ。

 

こうした名号は、一次的にはむろん、礼拝の対象として揮毫され軸装に調製されたが、僧徒の昇進や役職就任などのお披露目の宴席でも、その床の間に奉掛された。
たとえば、時代はやや降るが、宝暦12年(1762)、成身院訓算が催した自祝の会では、春日神号の掛け物に立花の「真の床飾り」で、濃茶・能狂言・一汁三菜以下の宴だった(寺蔵の学侶日記)。招かれた客僧や有縁の町衆たちは、その荘厳におのずと威儀を正したことだろう。

 

なお、春日名号の古いところでは、かの普賢寺摂政・基通(平清盛の娘婿、1160~1233)の筆になるという「慈悲万行菩薩」が、奈良の町衆から多聞院英俊に贈られたことが『多聞院日記』に出ている(天正8年−1580−)。
掲出の春日神号は、室町時代の興福寺別当・経覚の筆。

月刊『目の眼』2015年9月号

Auther

コラム|奈良 風のまにまに 6

多川俊映 (たがわ しゅんえい)

興福寺貫首 「天平の文化空間の再構成」を標榜し、一八世紀初頭に焼失した中金堂の平成再建を目指している。著書『唯識入門』『合掌のカタチ』『心を豊かにする菜根譚33語』など。

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