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阿蘭陀の謎と魅力

Ceramics | やきもの

色絵風景人物文皿 制作地不詳 18世紀 口径22.5㎝
河善が阿蘭陀展に出品した作品のひとつ。

 

 

 

対談

西田宏子 根津美術館顧問

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河合知己 河善

 

河合さんに持ってきていただいた阿蘭陀を前に談笑する西田宏子さんと河合知己さん

(麻布十番の目の眼事務所にて)

 

 

根津美術館で様々な陶磁の展覧会を開催されてきた陶磁研究家の西田宏子さんは1987年に「阿蘭陀」展を企画監修し、茶陶として日本に伝わる阿蘭陀を網羅する展覧会を開催しました。茶道具商「河善」の二代目河合知己さんは叔父にあたる初代河合三男さんから影響を受け、大の阿蘭陀好き。お二人に茶陶としての阿蘭陀の謎と魅力について対談していただきました。

*この対談は『目の眼』2024年8月号に掲載されています。

 

 

1987年10月9日〜11月15日に根津美術館で開催された「阿蘭陀」展の図録。現在は入手困難でプレミアがついている。

 

◆伝説の「阿蘭陀」展

 

——「阿蘭陀」展の図録は、今や古美術商やコレクターのバイブルになっていますね。

 

河合 そうです。私たちが阿蘭陀を手に入れたら、まずはこの図録の写真を見て、巻末に載っている窯印も調べます。1987年(昭和62)の図録ですが、これ以来、これだけ阿蘭陀がたくさん載っている本はないと思います。西田先生はどうして阿蘭陀の展覧会をされようと思われたんですか?

 

西田 私が根津美術館に学芸員として入った時に、当時副館長(後に名誉館長)だった菅原寿雄先生が「根津美術館に来たからには何か茶道具の展覧会を考えてください」と言われたんです。何をしたらいいでしょうと伺ったら、「もう宿題は用意してあります。南蛮島物をやってください」と仰ったんです。

 

河合 南蛮島物の展覧会も覚えています。それは阿蘭陀の後でしたよね?

 

西田 すぐにはできなかったんですよ。私は南蛮島物と言われても、それが何だかわからなかったのですから。それで、私はオランダに留学して、オランダにないやきものが日本の阿蘭陀だということがわかっていたので、まずはそれをやろうと思いました。

 

河合 では、阿蘭陀は留学に行かれてからご興味を持たれたんですか?

 

西田 興味を持ったというほどではなかったですけどね。日本にあるような、例えばの水指のようなものは全くないということが分かりました。展覧会をするにあたって、日本中にある阿蘭陀をとにかく見ればいいと思ったんですが、当時は写真の載った図録がなくて、どのようなものが伝わっているのか全くわからなかったので、売立目録を見て、そこに載っている阿蘭陀を追いかけました。それで大名家にあったものが多いことがわかりました。

 

河合 例えば長崎の平戸藩主松浦家などですね。貿易の窓口だったからですね。

 

西田 他には関戸家や平瀬家といったお茶人が持っていました。ただ、いつ頃から阿蘭陀が日本に入ってきたのかはっきりわからない。日本との貿易文書にも、陶磁器は初期に少し出てくるだけです。

 

 

藍絵狂言袴文透彫向付 オランダ 17世紀 高9.8㎝ 赤星家伝来品 根津美術館蔵 西田宏子氏寄贈

 

◆阿蘭陀はいつ日本にきたか

 

西田 私が大学生の頃ですが、増上寺の徳川家霊廟が改葬になって、そこから阿蘭陀のアルバレロが出土しました。

 

河合 徳川秀忠のお墓から出てきた13センチくらいの小壺ですね。秀忠の時代にはすでに伝わっていたことがわかるわけですが、茶陶として持っていたのでしょうか。

 

西田 秀忠の墓に納められた1632年というのが年代を特定できる初期の例と言えると思います。秀忠はお茶に使っていなかったと思われます。中に朱が入っていたそうですから。

 

河合 そうなんですか。

 

西田 東京大学敷地内からもデルフト片が出土していますが、全体的にみると江戸からのヨーロッパ陶磁器の出土は少ないです。

 

河合 東京大学の敷地も加賀前田藩の江戸屋敷跡ですね。

 

西田 大阪城址から莨葉文の細水指が出土していますが、土搆跡から出ているので、大阪城が焼けた跡に掘られたゴミ捨て場であった可能性があります。大阪夏の陣のあった1615年以前までにはさかのぼらないと思います。

 

河合 1615年以前というと古田織部の時代ですね。

 

西田 でも織部は阿蘭陀には興味がなかったでしょう。

 

河合 小堀遠州は阿蘭陀を注文したと言われていますね。遠州が「おらむた 筒茶碗」と箱書したとされる藍絵七宝文筒茶碗は釉が流れてしまっていますが小堀家の家紋の七宝を注文したんですね。阿蘭陀の茶碗はとても数が少ないですよね。

 

西田 そうですね。でも遠州の茶会記を調べても阿蘭陀は使われていません。阿蘭陀の茶碗というのはほとんど現存していないし、よくわからないのです。

 

河合 西田先生もお持ちなっていた狂言袴の向付などは高麗青磁の文様を写していて、明らかに注文品ですね。

 

西田 狂言袴は17世紀の注文品で、これも数が少ないですよね。展覧会当時は所蔵者の方に出品していただきました。展覧会を企画した時は、輸出伊万里が日本に残っていないのと同じように、ヨーロッパに残っていない日本伝世の阿蘭陀を探しました。拝見していくうちに「阿蘭陀」と呼ばれているものは江戸初期のものだけじゃないことがわかってきました。

 

河合 この図録をみても17世紀から20世紀までと幅が広いですね。

 

西田 そこは迷いましたけど、日本人は阿蘭陀がずっと好きだったと言えるわけでしょう? それで江戸時代を通じて愛された阿蘭陀の展覧会にすることにしたんです。

 

 

受胎告知図柄菓子鉢 オランダ 17世紀  松浦史料博物館蔵 松浦家に伝わったデルフト大皿

 

◆阿蘭陀を愛した茶人たち

 

河合 阿蘭陀は薬や酒を入れる容器として日本に入ってきたと言われていますよね。それを茶人が気に入って茶陶に使ったという。

 

西田 軟陶で染みますから酒とか液体の容器ではないでしょうね。何か乾燥したものが入ってきたのではないかと思います。

 

河合 それこそ煙草の葉とかでしょうか。

 

西田 それはわかりませんが、莨葉文を描いた水指はヨーロッパでは見られないので、どこで作られたかも全くわかりません。

 

河合 阿蘭陀の中でも莨葉文の水指は評価が高くて、市場に出てくると驚くほど高額です。

 

西田 莨葉文の中でも、葉の上下が交互に描かれているのは時代が古くて、注文品だと私は思います。

 

河合 そうなんですか。勉強になります。

 

西田 いずれにしろ鎖国令が出た後に徳川将軍の茶道指南役が石州流になって武家茶道が確立した1665年頃から、茶陶としての阿蘭陀は一度途切れます。江戸後期から幕末にかけて再び流行り、茶人たちが伝世していた阿蘭陀を参考にしてオランダに注文したと思います。

 

河合 私は20数年前にオランダに行った時、アムステルダムの骨董屋を廻りました。白いデルフトとかあるにはありましたが、残念ながら気に入ったものはなかったです。お茶は何でも取り入れるところが面白いですが、やはり自分たちの目利きで選んで、さらに好みに合うように注文していたんでしょうね。

 

西田 そうですね。茶陶の場合は新しいものも古いものも合わせてどう茶会に使うか、取り合わせて楽しんできたようですね。ヨーロッパに残っていないものを日本にこれだけ伝世させてきたのはお茶の文化があったからだと思います。お茶は大きな役割を果たしているといえますね。

 

河合 本当にそうですね。

 

——ありがとうございました。

 

 

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