加藤亮太郎さんと美濃を歩く 古窯をめぐり 古陶を見る Ceramics | やきもの やきものとしての美濃は知っていても、それがどこで生まれたかというのは、古美術好きでも詳しくは知らない人が多い。美濃焼が生まれたのは、岐阜県の東部。東濃と呼ばれる、多治見市、土岐市、可児市の周辺、しかも土岐市北部の元屋敷周辺と可児市の大萱周辺という狭い範囲が中心となり、黄瀬戸や瀬戸黒、志野、織部といった、誰も見たことがないようなやきものを作り出した。現在、窯跡の多くは緑の山に還っているが、元屋敷と大萱のの窯跡は保存され訪れることができる。美濃焼が生まれたふるさとへ、志野や引出黒の表現で注目される陶芸家・加藤亮太郎さんの案内で訪れた。 *この記事は、『目の眼』2019年9月号の特集 「美濃の古窯」に掲載されています。 本記事の案内人 多治見市市之倉で200年以上続く幸兵衛窯の八代目 陶芸家・加藤亮太郎さん 美濃には数多くの窯が築かれたといわれるが、ほとんどが自然に還っていたり、宅地や工場になっていて見ることは難しい。しかし、美濃を代表する窯跡の元屋敷は、一帯が国の史跡、出土品が重要文化財に指定され、また昭和五年に荒川豊蔵が志野の陶片を見つけた牟田洞窯跡には、豊蔵が建てた窯や住居が残り、現在は市の管理で整備、公開されている。この2カ所は同じ道沿いで距離も近いので、簡単に回ることができる。窯跡で見つかった陶片などは近くの資料館に展示されているので、美濃桃山陶を知る第一歩として訪れたい場所だ。 今回案内をお願いした加藤亮太郎さんは、多治見市南部の市之倉で200年以上続く幸兵衛窯の八代目。祖父の加藤卓男氏はラスター彩を再現し、三彩で人間国宝に認定された。また、父の七代加藤幸兵衛氏もラスター彩の作陶で知られるなど、美濃を代表する陶芸の家系に生まれ、自身も京都で陶芸を学んだのち美濃に戻ると、アイデンティティを探るように美濃古陶の研究に打ち込み、現在は引出黒(瀬戸黒)や志野などの桃山陶を中心に作陶を続けている。美濃の古窯をめぐるという今回の企画には最適で、案内役を快く引き受けていただいた。 復元された元屋敷の大窯を見る ●市街地のすぐそばに眠る窯跡 最初に訪れたのが元屋敷陶器窯跡。土岐市街のすぐそばの山の斜面、緑に包まれて大窯などが復元されていた。亮太郎さんも何度も訪れている場所で、土岐市美濃陶磁歴史館の学芸員、鍋内愛美さんに元屋敷の歴史について伺った。 荒川豊蔵の志野陶片発見以降、美濃古陶がブームとなり、窯跡が採掘されて陶片が無断収集される事態となったが、番小屋まで建てて頑として窯跡を守っていたのが、元屋敷に住む岡田折三郎だったという。盗掘に憂えた多治見工業学校の教師、高木康一氏が古窯を守るための調査を申し出ると折三郎は快諾。竹林を探ると志野や織部の無数の陶片が出土し、元屋敷が美濃桃山陶の一大生産窯場であることが確認された。現在は一帯の発掘調査により、大窯が3基と連房式の登窯が1基確認され、16世紀後半から17世紀初頭にかけて造られた窯跡であることがわかった。史料によると、天正年間に加藤景光が信長からの命で瀬戸から美濃に移り住み、その子の加藤景延が唐津で造り方を学ぶと、美濃で初めて連房式登窯を造ったという。一度に多数ができる連房式登窯はやきものの産業革命であり、織部の製作が格段に盛んになったが、元屋敷での生産はわずか10年にも満たないほどで、以降は牟田洞など周辺に移っていったと考えられている。 平成以降6次にわたる調査で、大窯では黄瀬戸や瀬戸黒、志野。連房式登窯では織部が焼かれた形跡が確認された。発掘した無数の陶片が保存されているが、そのなかで整理された土岐市所蔵分2041点と、多治見工業高校所蔵分390点が美濃陶生産の変遷が分かる資料として平成25年に重要文化財に指定されている。すぐ近くには土岐市美濃陶磁歴史館があり、発掘品を中心とした企画展を行っている。訪れた日は「美濃桃山陶と茶の湯」展を行っており、亮太郎さんも展示されていた元屋敷出土の織部や志野の造形に感心しきりの様子だった。 大窯3号窯は発掘調査当時のままに保存されている ●自然に包まれた陶芸家の理想郷 元屋敷から山を越えて可児市の牟田洞窯へ向かう。道路の周辺は深い木々が茂っているが、谷沿いには古窯が点在しているという。ほどなく右側に荒川豊蔵資料館の駐車場が現れた。川をはさんで北側に窯跡、南側に窯跡と牟田洞窯跡がある。 昭和5年4月、北大路魯山人と荒川豊蔵は名古屋で関戸家所蔵の志野茶碗、銘「玉川」(現在は徳川美術館所蔵)を拝見すると、その底に残った器の溶着を防ぐトチンの赤土を見て、志野が瀬戸の白土で焼かれたというそれまでの説に疑問を持ち、2日後に美濃を訪れて牟田洞で同じ筍の絵柄の陶片を発見。魯山人によって美濃陶説が発表されると、一大センセーションを巻き起こして美濃陶ブームが始まった。 筍絵の陶片発見場所に立つ石碑「随縁碑」 駐車場から木々のトンネルを抜けると、牟田洞古窯跡と記された石碑が立ち、谷沿いに豊蔵の陶房や居宅、急斜面を上り詰めたところに資料館がある。豊蔵は魯山人の星岡窯の工場長を務めていたが、3年後に郷土の美濃に戻ると、牟田洞に移り住み、窯を開いて志野や瀬戸黒の再興に情熱を注ぐことになる。1985年に没するまでこの地で過ごしたが、自然に包まれた牟田洞の風景を愛していたという。 2013年、一帯が可児市に寄贈されると、市では「美濃桃山陶の聖地」として整備し、一般公開した。牟田洞の窯跡は資料館の奥にあり、通常は非公開だが、春のゴールデンウイークなど年に数回特別公開されている。取材では特別に許可を頂き、窯跡に入らせていただいた。思いのほか急斜面で、草木の間に焼成の時に使われた(えんごろ)や陶片が散らばっていた。 谷沿いは木々が茂り、遠くからの車の騒音が途絶えると、聞こえるのはせせらぎと、鳥の声だけ。可愛らしい山野草の花が風に揺れている。白洲正子も訪れたという居宅もそのままで、「豊蔵は縁側に座って四季の風情を眺めていたようですよ」と、牟田洞を知り尽くした学芸員の加藤桂子さんに教えていただいた。織部を焼いていた時代も、豊蔵の時代も同じだったであろう牟田洞の里山の風景を眺めていると、時の流れに感慨を抱いた。 桃山陶が近代まで瀬戸焼と考えられていたのは、安土桃山時代、京都や大阪などの消費地で、瀬戸と美濃は一体と捉えられ、美濃焼も「瀬戸焼」と呼ばれていたこと、さらに、美濃での桃山陶生産の終焉後、江戸時代に瀬戸で「復興織部」が造られたことが背景にあると考えられる。 たたずまいが素晴らしい幸兵衛窯 古陶磁資料館 実際、美濃では古墳時代から須恵器が焼かれるなど古来からの窯業地であるが、流行に敏感に反応し、その時の需要に合わせてさまざまな種類のやきものが焼かれてきた。腕の器用さもあって、備前や九谷、唐津といった特定のスタイルにならなかったことが、その名が知られなかった一因でもあった。茶の湯の興隆で志野や織部などの桃山陶が焼かれたが、江戸に入って茶陶が売れなくなると、美濃のやきものは庶民向けにすぐさま変わっていった。明治以降も日本のやきもの生産の一大拠点として君臨し、現在は和食器、洋食器は全国シェアの半数以上、タイルも半数が美濃焼という、日本を代表するやきものの里である。 長い美濃の歴史の中で、桃山陶はほんのわずかな瞬間だけ焼かれたものだが、その造形美は今も人々の心をつかんで離さない。豊蔵や亮太郎さんのように、桃山陶を自分の作品として作り出す人もいる。ぜひ美濃の古窯を訪れてその土地の空気に触れ、資料館で陶片を見て、桃山陶に思いを馳せてみてはいかがだろうか。 ▷ 『目の眼』2019年9月号の詳細は、こちら 『目の眼』2019年9月号より RELATED ISSUE 関連書籍 目の眼2025年2・3月号No.579 織部のカタチ アバンギャルドな粋 やきものとしての美濃は知っていても、それがどこで生まれたかというのは、古美術好きでも詳しくは知らない人が多い。美濃焼が生まれたのは、岐阜県の東部。東濃と呼ばれる、多治見市、土岐市、可児市の周辺、しかも土岐市北部の元屋敷周辺と可… 試し読み 雑誌/書籍を購入する POPULAR ARTICLES よく読まれている記事 TSUNAGU東美プロデュース 古美術商が語る 酒器との付き合い方 Vassels | うつわ スペシャル鼎談 これからの時代の文人茶 繭山龍泉堂 30年ぶりの煎茶会 龍泉文會レポート People & Collections | 人・コレクション 連載|辻村史朗(陶芸家)・永松仁美(昂 KYOTO店主) 辻村史朗さんに酒場で学ぶ 名碗の勘どころ「井戸茶碗」(前編) Ceramics | やきもの Book Review 会津に生きた陶芸家の作品世界 Others | そのほか 連載|真繕美 唐津の肌をつくるー唐津茶碗編 最終回 Ceramics | やきもの 札のなかの万葉 百人一首と歌留多のこころ History & Culture | 歴史・文化 羽田美智子さんと巡る、京都の茶道具屋紹介 茶道具屋さんへ行こう Vassels | うつわ 眼の革新 大正時代の朝鮮陶磁ブーム 李朝陶磁を愛した赤星五郎 History & Culture | 歴史・文化 稀代の美術商 戸田鍾之助を偲ぶ People & Collections | 人・コレクション 白磁の源泉 中国陶磁の究極形 白磁の歴史(2) Ceramics | やきもの 眼の革新 鈍翁、耳庵が愛した小田原の風 People & Collections | 人・コレクション 正宗の風 相州伝のはじまり “用と美”の革新、名刀匠正宗の後継者・正宗十哲が繋ぐ相州伝 Armors & Swords | 武具・刀剣