展覧会紹介|堺市博物館

仁徳天皇陵古墳のお膝元で、幻の副葬品が初公開中! 堺市博物館企画展「堺のたからもん 金で魅せる 黒を愛でる」

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大仙公園内にある堺市博物館

大仙公園内にある堺市博物館

 

 

 

大仙公園内にある堺市博物館

常設展示奥に企画展示スペースがある

 

 

 

現在、堺市博物館で開催中の企画展「堺のたからもん 金で魅せる 黒を愛でる」に、最近ニュースでも報道され、大きな話題となっている仁徳天皇陵古墳の副葬品が初公開されています。

 

それは約10㎝の小さな金銅装刀子と甲冑金具。この小さな遺物がなぜ重要かというと、仁徳天皇陵古墳の副葬品であることが明らかなものとして、今わたしたちが眼にすることができる唯一の遺物だからです。

 

 

仁徳天皇陵古墳副葬品の展示

仁徳天皇陵古墳副葬品の展示にはたくさんの観覧者が集まっている

 

 

このたび初公開となった遺物は、明治5年(1872)9月に仁徳天皇陵古墳から出土したと記され、朱印が押された包み紙に入っていました。

 

「栢」の朱印は建築家で数寄者の柏木貨一郎(号:探古斎 1841〜1893)のもの。これらは、三井財閥で活躍した実業家で近代数寄者としても有名な益田孝(号:鈍翁 1848〜1938)の所蔵であった箱に他の遺物とともに収められていました。その箱は鈍翁亡き後、何人かの古美術商の手を経て、現在は國學院大學博物館の所蔵となっています。

 

 

展示されている仁徳天皇陵古墳副葬品

 

 

去る7月27日、堺市博物館において、これらの副葬品を調査した國學院大學博物館副館長・文学部教授の内川隆志さんと関西大学客員教授の徳田誠志さんの講演が行われました。

講演会は超満員。大変多くの応募があり、急遽定員を増やし、会場横の別室でもモニターで視聴できるようにしたそうで、関心の高さがうかがえました。

 

 

 

内川隆志氏講演「好古家柏木貨一郎について」

 

内川隆志さんは、博物館学の観点から近世近代の好古家とそのネットワークについて調査研究をされており、以前より柏木貨一郎についても詳しく調べられていました。

 

講演では、「どうやって、日本人はものを愛でてきたか」から語りおこし、江戸時代に数多くの好古家が誕生していたこと、そして柏木貨一郎の生涯と好古家との交流について詳しく解説されました。北海道の名付け親として知られる松浦武四郎や埼玉・熊谷の政治家、好古家の根岸武香、オランダ医師シーボルトの息子で考古学者だったハインリッヒ・シーボルト、大森貝塚発見で有名なエドワード・S・モース、そして益田鈍翁など多くの好古家と親しく交わっていたそうです。

 

いまだ博物館や美術館が存在せず、美術史や考古学が確立されていない時代、私財を投じて古美術骨董や考古遺物を蒐集した好古家たちが重要な役割を果たしていたことが分かる内容でした。

 

 

仁徳天皇陵古墳副葬品の展示

國學院大學博物館副館長・文学部教授 内川隆志さん

 

 

 

キーパーソン柏木貨一郎

 

柏木貨一郎とは、広い知識と鑑定眼を持ち、明治期の文化行政にもたずさわった重要な人物だったのです。

 

貨一郎は幼いころから儒学、絵画、茶道を学び、17歳のときに江戸幕府の小普請方大工棟梁の家に養子に入りますが、明治維新で家業を失いました。しかしその才能で、日本の数寄屋作りを手掛ける建築家として活躍します。また古美術鑑定家、古代史研究家、好古家として世に知られました。現在では国宝となった平安時代の「源氏物語絵巻」や「辟邪絵」などの古美術の名品を所蔵しましたが、考古学にも深く興味を持っていました。

 

貨一郎は明治4年(1871)に明治政府が開催した大学南校物産会に、市井の好古家として化石や石器、勾玉などを96点も出品し、のちに日本の博物館設立に大きく貢献した物産会主催者の町田久成(東京国立博物館に銅像があります!)と知り合い、博物館御用掛に任命されました。翌年の明治5年(1872)には、社寺宝物調査(壬申調査)に随行を命じられ、古器物の写生を担当。正倉院の調査にも立ち会っています。

 

明治5年といえば、刀子と甲冑金具の包み紙に書かれている年。しかし、天皇陵とされた古墳は許可なく立ち入ることは禁じられています。なぜ仁徳天皇陵古墳の副葬品が出土し、貨一郎が持っているのでしょうか。

 

実は、明治5年に仁徳天皇陵古墳の石槨が露出し、副葬品が見つかるという出来事があったのです。そして柏木貨一郎が写生した石槨と石棺、甲冑の図面が今も保存されています。

 

 

 

徳田誠志氏講演「明治5年の石室開口について」

 

 

仁徳天皇陵古墳副葬品の展示

関西大学客員教授 徳田誠志さん

 

 

 

徳田誠志さんは元宮内庁職員。陵墓調査室の陵墓調査官を務め、保全を目的に長年陵墓を調査されてきたそうです。仁徳天皇陵古墳についても、内側にある堤(つつみ)部分を発掘調査されています。

 

「こんなものがこの世にあるのか!!!」。徳田さんの講演は、2024(令和6)年6月に初めて仁徳天皇陵古墳副葬品を実見したときの驚きからお話が始まりました。明治5年に露出していたという石室と副葬品は、調査後すぐに埋め戻されています。徳田さんは何度も仁徳天皇陵古墳の墳丘を踏査されていますが、その位置を確認することはできなかったそうです。古墳の葺石に使われたと見られる石材は散見されるものの、副葬品らしきものが落ちていることもないとのこと。100年以上の時がたち、ふたたび草や木が茂り、墳丘の表面を覆い隠しているようです。

 

明治5年の石室開口については史料(公文書)があり、その経緯が明らかだそうで、とても丁寧な解説がありました。その経緯を簡単にまとめると次のようになります。

 

 

  • 明治5年4月15日 堺県令税所篤(さいしょあつし 1827〜1910)が鳥の糞で汚れた御陵(仁徳天皇陵古墳)を清掃したいと願い出る。
  • 同年9月13日 許可を得た堺県(当時は県でした)が御陵を掃除していたところ、土が崩れ露出した大石の下に穴があったのでのぞいてみると、甲冑ならびに剣、陶器類、大きな石棺を発見。教部省(その年から陵墓事務を管轄していた役所)へ報告。
  • 同年9月19日 社寺宝物調査(壬申調査)に同行していた宮内省の役人にも連絡が行き、確認調査に行く。ちょうど調査を終えて京都に滞在していた壬申調査の一行から、柏木貨一郎らが派遣された。

 

 

そのとき貨一郎は仁徳天皇陵古墳の前方部で見つかった石槨(せっかく/古墳の中に石で作られた棺を収めるためのスペース)と石棺、副葬されていた甲冑を描いています。

 

暗い石槨の中で寸法計測がなされ、正確な図面を残した貨一郎について、「驚異的な作図能力だと思います」と徳田さん。甲冑は外に持ち出して作図したのではないかと推論されていました。副葬品は先にも書いたように、すぐに地中に埋め戻されました。今回見つかった刀子と甲冑金具片は、甲冑を持ち出したときに落下したものを採取したと考えられています。

 

 

仁徳天皇陵古墳の展示

仁徳天皇大仙陵石槨之中ヨリ出シ甲冑ノ圖(部分)個人蔵

※柏木貨一郎が描いた仁徳天皇陵古墳副葬品・横矧板鋲留短甲

 

 

仁徳天皇御陵南登り口地崩出現ノ石棺并石槨ノ圖(レプリカ) 

仁徳天皇御陵南登り口地崩出現ノ石棺并石槨ノ圖(レプリカ) 原品:八王子市郷土資料館蔵

※「柏木貨一郎の図面を模写したもの

 

 

 

実見できる唯一の仁徳天皇陵古墳の副葬品なのか?

 

以前より、仁徳天皇陵古墳の副葬品がアメリカの美術館に所蔵されているという説がありました。徳田さんは2008年(平成20)にボストン美術館に行き、そのうわさの元となっている古墳の副葬品を調査されました。それらは青銅の鏡、三環鈴、馬鐸(ばたく 馬につける鈴)、大刀の柄頭(つかがしら)で、たしかに古墳の副葬品ですが、作られた時代は6世紀で仁徳天皇陵古墳よりも時代がくだることが確かめられました。

 

またボストン美術館の記録には出土地の情報はなく、岡倉覚三(号:天心 1863〜1913)が1906年(明治39)10月に京都で購入した会計書類も保管されていたそうです。岡倉天心は東京藝術大学美術部の前身となった東京美術学校の設立に関わった日本美術史家として有名ですが、1903年から1911年までボストン美術館の日本美術部に勤務し、ボストン美術館のために日本美術を購入していました。

 

「これまでも機会があるたびにお話したり、書いたりしているのですが、伝仁徳天皇陵出土品という話が消えません」と徳田さん。ボストン美術館の研究者も仁徳天皇陵古墳の副葬品とは思っていなかったそうで、日本でそういった説があることに驚いていたそうです。

 

なぜ風聞が生まれたのか。当時、堺県令だった税所篤が好古家で、古美術や考古品を蒐集していたことに起因するようです。京阪の古墳を発掘して遺物を蒐集しているという「うわさ」があり、明治5年の一件も、鳥糞の掃除を口実にした盗掘だったのではないかと考える人もいました。

 

しかし、徳田さんと内川さんは明治5年の石室開口の史料に不自然なところはなく、盗掘などではなかっただろうと話されていました。

今回出現した遺物も、副葬品を収め戻したあとに、とりこぼしていたものを柏木が見つけ拾ったものと考えられそうです。確かに、意図的であれば、もっと完品に近いものを持ち出すのではないかと思われます。

 

 

 

小さな刀子と甲冑金具の価値

 

 

金銅装刀子 國學院大學博物館蔵

金銅装刀子 國學院大學博物館蔵

 

 

金銅装刀子 國學院大學博物館蔵

右:鉄地金銅張甲冑金具2点   左:不明品1点 國學院大學博物館蔵

 

 

正直なところ、展示されている金銅装刀子と甲冑金具を観ると、古美術としては魅力的ではないかもしれません。

 

しかし、歴史的、考古学的資料としては非常に価値の高いものです。X線やCTスキャンなどの分析が行われたことで、刀子はヒノキで作った木製の鞘(さや)を金銅板で覆い、銀製の鋲で留めた類例のないものであると発表されました。鞘の中には鉄製の刀身も残っています。

 

甲冑金具はわずかな小片ですが、分析の結果、鉄板に貼られた金メッキの銅板であることがわかり、鉄地金銅張短甲の一部と考えられるそうです。今まで貨一郎の図面から予想しかできなかった素材と作りが明らかになりました。測定で鉄の成分が出たときは、長年の疑問が晴れたと拍手喝采となったと、徳田さんは嬉しそうに語られていました。

 

 

 

巨大前方後円墳はファミリーの墓!?

 

仁徳天皇陵古墳はご存知の通り、墳丘長約486メートルの巨大な前方後円墳です。現在の研究では、前方後円墳の主となる石室は後円部分にあると考えられていますが、巨大前方後円墳には複数の人物を埋葬している例がいくつか知られています。

 

記録によると、明治5年に開口した石室は前方部にあります。内堤の発掘で出土した埴輪の方が時代的には5世紀中ごろで、今回の展示品より数十年ほど古いと考えられるといいます。

 

造営に何年もかかったためかもしれませんが、主体の被葬者が埋葬されたのち、何年かして血縁の王族が追葬されたとも考えられます。

 

 

 

天皇陵と古墳をまもる

 

天皇陵として守られてきた古墳は、古くから人々に大切に守られてきましたが、明治5年の石室の露出もそうだったように、自然の風雨や地震、植物の繁茂、水による浸食によって崩れていきます。禁足地としておくだけでいいのか、これからどのように貴重な文化財、遺跡でもある陵墓とその副葬品を保全していくのかも、今後の問題提起として、講演の最後にお話がありました。

 

内川隆志さん、徳田誠志さんの講演は、仁徳天皇陵古墳の副葬品である刀子と甲冑金具の科学的調査による新知見や考察はもちろん、江戸から明治にかけて考古遺物を蒐集した好古家が果たした役割、古墳の状態と維持、天皇陵としての存在意義など、多くのことを考えさせられるものでした。

 

古美術骨董の視点で見ると、伝世してきたもの、発掘されたもの(骨董業界では中途伝世と言います)、社寺から流出したものなどその来歴は様々ですが、大切に思う人々の手を渡ってきたものです。現在、美術館博物館で展示され、国宝や重要文化財に指定されているものでも、コレクター(=好古家・蒐集家)と古美術商が伝えたものが数多くあります。もちろん不正な入手は許されることではありませんが、古美術骨董のほとんどは好古家が私財を投じて蒐集したもの、廃棄されるところを入手したものだと思います。

 

なぜ今日まで伝わって、ここにあるのかを考えてみると、好古家・蒐集家の果たした役割は大きいと改めて感じます。

 

初公開中の仁徳天皇陵古墳副葬品は、100年以上包まれていた包み紙も一緒に展示されています。この小さな断片を貴重なものと理解し、大切にした柏木貨一郎のこころが伝わってきます。

 

講演会では、堺市博物館館長の須藤健一さんから「仁徳天皇陵古墳副葬品を初めてみてもらうのはぜひ御陵のある堺で!」という熱いお話もありました。堺市博物館は仁徳天皇陵古墳に隣接する大仙公園の中にあります。企画展を観たあとは、ぜひ仁徳天皇陵古墳も参拝しましょう。

 

 

仁徳天皇陵

仁徳天皇陵古墳 遙拝所

 

 

堺市博物館で開催中の企画展「堺のたからもん」では、そのほかにも金と黒をテーマに、百舌鳥古墳群から出土した金工品、住吉祭礼図屏風や水墨画、草花蒔絵螺鈿洋櫃などの蒔絵、堺で出土した黒織部茶碗、瀬戸黒茶碗などが展示されていて、古美術骨董好きなら必ず楽しめる展示となっています。

 

 

住吉祭礼図屏風

住吉祭礼図屏風

 

 

黒織部茶碗 2点

黒織部茶碗 2点

 

 

 

 

Information

企画展「堺のたからもん 金で魅せる 黒を愛でる」

開催中〜2025年9月7日

会場

堺市博物館

会期

開催中〜2025年9月7日

URL

TEL

072-245-6201

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