氷柱箱 | 涼やかな「かほり」の一滴

桑村祐子

高台寺和久傳 女将

雫がひと粒、氷の表面をつたって静かに静かに落ちてゆきます。波紋はすぐに消えてしまうほどわずかでも、小さな水琴は涼やかなしずく色を奏でます。

 

これを「かほり」と、表現してくださった方がいらっしゃいました。

 

祇園囃子が、どこからともなく聞こえてくる七月のこと。毎年お朔より晦日までの一ヶ月間は、鉾町に軒を連ねる中京の生まれでなくとも、神聖な気持ちと心地よい緊張感に包まれて暮らします。 暑さを凌ぐ夏座敷にも、普段より少しあらたまった室礼を心がけるのは、御神事を陰ながら支えたいという、ささやかな矜持と願いを込めてのことです。そうした中でも、ほっと息をぬいて安らいでいただけたらと思い、座敷に氷が設えられるよう、杉と白竹の簀で氷柱箱を拵えました。

 

八坂神社の南にあたる高台寺の周辺も、黄昏時ともなれば人通りもまばらになり、蝉しぐれがいっそう際立って聞こえてきます。蝉の聲が、まとわりつくような蒸し暑さの中、その方は参道をゆっくりと歩いて、わたくしどもの目立たぬ門をくぐられました。申し訳ないことに、敷き瓦の奥にある玄関の寄り付きでは、ただ物言わぬ氷柱だけがお待ちしておりました。

 

無風の小間で、おひとり取り残されたように時を過ごされたその方は、透きとおった氷の肌が、湿度を集めて溶けていくのをしばらく黙って見つめ、時折ささやく一滴一滴の響に耳を澄まして佇んでおられたようです。

 

ようやく部屋にお通しして、すぐにお迎え出来なかった非礼をお詫びしたものの、申し訳ない気持ちがすぐには消えません。それを察してくださったのでしょうか、「あれは、かほりですね」と気遣うように、そっと言葉をかけてくださいました。ありがたい気持ちでいっぱいになりながら、なぜかその言葉の意味を問わず仕舞いにしてしまったことも、夏の日に添えられた香りの記憶となりました。

 

御簾越しに透ける庭の苔や、絽をまとう袂の襲(かさね)、籐の網代のひんやりとした肌触りなど、感覚を通して呼び醒まされる感性があります。その五感の先にあるかすかな気配を「かほり」という言葉であらわしてくださった方の、繊細でゆかしいお気持ちが優しさとともに伝わってきます。

 

 

暑い夏の無事を祈る思いも、少しお届けできたのではと、嬉しい気持ちと安堵感に満たされました。

 

言葉にすると消えてしまう陽炎のようなひととき。人それぞれが感ずる、ごく微かで壊れやすいものほど、慈しみ、大切にしていきたいと思います。

月刊『目の眼』2013年7月号

Auther

桑村祐子(くわむら ゆうこ) 

高台寺和久傳 女将。京都の丹後・峰山で開業した料理旅館をルーツとし、現在は高台寺近くに門を構える料亭の女将として和の美意識を追求している。「心温かきは万能なり」が経営の指針。

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