華原磬

多川俊映

興福寺貫首

興福寺に、「華原磬」と呼ばれる国宝指定の仏具が伝えらている。

 

唐製か日本製か意見が分かれるけれど、いずれにせよ、8世紀の作。さしずめ日本でいえば天平期の仏教工芸の優品で、つとに名高い。

 

この華原磬という名称は当初のものではなく、寺の流記資財帳に記される「金鼓一基」がそれと同定される。華原磬とは、現在の中国・陝西省耀県の華原産の磬の意味で、いわゆる唐物を珍重したわが中世の名称らしい。ちなみに、観阿弥や世阿弥の時代よりやや古いといわれる能「海士」の、シテの語りにも、つぎのように出ている。

 

──今の大臣淡海公の御妹は。 唐 高宗皇帝の后に立たせ給ふ。されば其御氏寺なればとて、興福寺への三の宝を渡さるる。花原磬泗浜石。面向不背の玉。二つの宝は京着し。明珠は此沖にて龍宮に取られしを。大臣御身をやつし此浦に下り給ひ。いやしき海士乙女と契りをこめ。ひとりの御子を儲く。今の房前の大臣是なり・・・・・(傍点、引用者)。

 

史実を軽々と超えて物語を紡ぐ中世のエネルギーには恐れ入るが、それはさて、この華原磬はもともと「坐白石面」、つまり、白石の台に載っていたという。昭和18年(1943)の福山敏男氏の研究によれば、その白石が「吉野遠河之山」から興福寺に運ばれたことが解明されている(天平6年-734-の正倉院文書)。なお、遠河とは、現在の奈良県吉野郡天川村洞川地区との推定だ。

 

降って昭和28年、どういう事の成り行きだったのか知らないが、この華原磬は、当時の文化財保護委員会によって作られた比較的薄い欅の台に被載固定され、近年に至った。

 

しかし、平成22年(2010)に創建1300年を迎えた興福寺では、中金堂再建など「天平の文化空間の再構成」を合言葉に天平回帰に取り組んでおり、こうした華原磬の台石復原にも自ずから食指が動く。おりしも、奈良県立橿原考古学研究所長・菅谷文則氏によれば、現在も天川村洞川では結晶質石灰岩(いわゆる大理石)の露頭が確認され、また、国の許可を受けた村営工事などでその一部が採石保存されている由。そこで、それらの石灰岩白石を洞川地区から譲りうけ、昨年春、念願の華原磬の台石復原を試みた。

 

高さ5寸5分・広さ2尺3寸9分×2尺3寸9分の寸法はもとより『興福寺流記』記載のもので、天平の標準尺(1尺=29,54㎝)を用いた。じっさい、その台石の上に載せてみると、華原磬の精彩を放つこと想像以上で、復原の意義を改めて再確認した。

 

ただ、なぜ白石なのか─。たとえば、白楽天の一句に「有石白磷磷(石有り、白きこと磷磷)」とあり、玉石の光沢を耽美しているが、この漢民族の玉石に対する嗜好の尋常でないことから推せば、唐製の華原磬に相応しい結晶質石灰石を吉野遠河に求めたのではないか。

月刊『目の眼』2015年7月号

Auther

コラム|奈良 風のまにまに 4

多川俊映 (たがわ しゅんえい)

興福寺貫首 「天平の文化空間の再構成」を標榜し、一八世紀初頭に焼失した中金堂の平成再建を目指している。著書『唯識入門』『合掌のカタチ』『心を豊かにする菜根譚33語』など。

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