ナラノヤエザクラ 多川俊映 興福寺貫首 春日野では、ソメイヨシノやヤマザクラなどの見慣れた桜が散って、しばらくするとナラノヤエザクラが咲く。この桜、八重咲きといっても絢爛豪華でなく、いたって清楚だ。が、初めの淡いピンク色がしだいに濃い紅色になる優れもので、奈良の春の最後を飾る。 その昔、興福寺東円堂にあった「奈良の都の八重桜」がこれで、当時、なかなかの評判だった。一条天皇の中宮彰子(988~1074、藤原道長のむすめ)はそれを京へ移植しようと思い、命じて根を堀り上げ、車で運び出させた。 そこに行き合せた興福寺大衆が、「いくら中宮の仰せでも、これほどの名木の移植を易々と承知した別当、けしからん」と体を張って阻止した。それがまた、たいそう評判になって、中宮いわく、――奈良法師は心なき荒くれ者と思っていましたけれど、ずいぶん風情を解する人たちなのですねぇ。ということになって、移植は沙汰止みになった。イヤそれどころか、くだんの桜を保護するために、伊賀の余野庄を「花垣の庄」として氏寺に施入したという(『沙石集』巻九)。 それで、この桜が咲く頃になると、奈良から中宮彰子の下へ一枝が献上された。 それを彰子に侍った伊勢大輔が、 いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな と詠ったのだ。――あの奈良の八重桜が今日、九重(禁中)で愛でられておりますよ。 この東円堂の八重桜は、その後も珍重された。たとえば、中世末・近世初頭の史料として有名な『多聞院日記』にも散見される。日記の筆者・長実房英俊(1518~1596)は晩年、この桜に御執心で、71歳の天正16年(1588)2月26日条に、「木継ぎの上手な甚四郎に来てもらって、東円堂の桜二枝を接木した」(取意)と記している。 その接木は順調に育ったが、5年経っても花は咲かず、天正20年3月16日条では、「恨めしいかぎりだ。来年こそは咲くだろうか。露の命だから見られるかどうか…」(取意)と述べている。 しかし、ついに文禄3年(1594)の3月6日開花、「始〔初〕而咲間花見トテ、ウトンニテ酒進了(初めて咲いたので花見だ。うどんを肴にいささか酒を飲した)」とある。 時に、長実房77歳。日記にはこのように事実だけが短文で記されているが、――よかった。と、読む者になにかしらそう思わせるものがある。それはおそらく、独りきりの静かな老いらくの花見であったろうが、露の命だからこそ生きて今ここに在るよろこびを、東円堂ゆかりのナラノヤエザクラに必ずや語りかけたであろう、と思われるからだ。 御歌所の歌人だった阪正臣(1855~1931)は「年々花見」と題して、 ことしまた見る人かずに入りし身の よろこばしさを花に語らむ と詠っている。 月刊『目の眼』2015年5月号 Auther コラム|奈良 風のまにまに 2 多川俊映( たがわ しゅんえい) 興福寺貫首 「天平の文化空間の再構成」を標榜し、一八世紀初頭に焼失した中金堂の平成再建を目指している。著書『唯識入門』『合掌のカタチ』『心を豊かにする菜根譚33語』など。 RELATED ISSUE 関連書籍 2015年5月号 No.464 古唐津の風景(SOLD OUT) 春日野では、ソメイヨシノやヤマザクラなどの見慣れた桜が散って、しばらくするとナラノヤエザクラが咲く。この桜、八重咲きといっても絢爛豪華でなく、いたって清楚だ。が、初めの淡いピンク色がしだいに濃い紅色になる優れもので、奈良の春の最後を飾る。 … 雑誌/書籍を購入する POPULAR ARTICLES よく読まれている記事 羽田美智子さんと巡る、京都の茶道具屋紹介 茶道具屋さんへ行こう Vassels | うつわ 名碗を創造した茶人たち Vassels | うつわ 花あわせ 心惹かれる花は、名もなき雑草なんです Vassels | うつわ 東京・京橋に新たなアートスポット誕生 TODA BUILDING Others | そのほか アンティーク&オールド グラスの愉しみ 肩肘張らず愉しめるオールド・バカラとラリック Vassels | うつわ 古信楽にいける 花あわせ 横川志歩 Vassels | うつわ 展覧会情報 今秋、約50年ぶりのはにわ展/東京国立博物館 Ceramics | やきもの 展覧会情報|福岡市美術館 知られざる目利き・吉村観阿の展覧会開催 Ceramics | やきもの 超! 日本刀入門Ⅰ|日本刀の種類について解説します Armors & Swords | 武具・刀剣 ビンスキを語る ビンスキは どこからきたのか 〜その美意識の起源を辿る History & Culture | 歴史・文化 新しい年の李朝 李朝の正月 青柳恵介 People & Collections | 人・コレクション 連載|辻村史朗(陶芸家)・永松仁美(昂 KYOTO店主) 辻村史朗さんに酒場で学ぶ 名碗の勘どころ「井戸茶碗」(前編) Ceramics | やきもの