伝世ということ

多川俊映

興福寺貫首

興福寺の五重塔は、古都奈良のシンボルといってよい。この塔の創建は天平2年(730)。春日山の麓が西に張り出した丘陵地、いわゆる春日野の西南端に聳え立つこと久しく、今のは六度目の応永年間(15世紀)の再建だが、天平の気分をよく四周に醸している。

 

明治初期の激しい廃仏毀釈のさ中、この五重塔が、たとえば50円というような値段で売りに出されたとか、四人合力で買うはずが、うち二人が資金調達できず沙汰止みになったとか。そして、その揚げ句が、金具目当てで買った? 人が塔を引き倒そうとしたが、びくともしない。——それなら、と火をつけて金具をせしめようとしたが、類焼をおそれた周辺住民が猛反対。これまた、沙汰止みになったという話が今もって、まことしやかに語られる。

 

当時、興福寺は「無住」だったという。が、それは、住持という高位の管理責任者がいないという意味で、堂塔や尊像の維持にかかわろうとする人間が誰一人、いなかったというのではないだろう。もし、人っ子一人いない無住であったなら、この天平の仏教寺院は明治4、5年頃、文字通りアウトになっていたにちがいない。
ここに詳しく記すゆとりはないが、江戸幕末まで興福寺公物の管理業務を掌っていたのが寺内の唐院で、その承仕(在家得度した管理局員)たち、なかでも中村堯円・雅真父子が中心となって、維新後も、従前の管理業務をなにほどか自主的に継続していたのであろう。というのが、筆者の見解だ。

 

この唐院承仕を代々勤めた中村家は奈良の名家で、堯円は明治13年(1880)、奈良有志総代の一人として興福寺再興願を内務省に提出しているし、長男の雅真はその後、昭和18年(1943)2月まで、興福寺の筆頭信徒総代として復興の一翼を担った。なお、雅真の弟・正久は、明治22年に白鶴の嘉納家に入籍、のちに白鶴美術館を創設している。これら中村家の人々は、興福寺に伝わる優れた寺宝を日常管理する家柄で、いわゆる古美術の目利きでもあった。殊に雅真過眼は信頼が厚く、現に、奈良骨董の佳いものは雅真旧蔵である場合が多い。

 

ちなみに、「伝世品」というが、ものが勝手に伝世するわけではない。それが、自分たちにとってかけがえのないものであり、それを次代に伝えたい・伝えなければならないという深い美意識と、それにともなう地道な手立てがないと、どんな優品も早晩傷つき、そして、いずれは失われていく。

 

とくに日本の文化財は素材が脆弱だから、時に保存修理の手を加えないといけないし、そのためにも、ふだんの目通し・風通しが欠かせない。そういう受け継ぎ・受け渡す地道さの中に、優品佳品が世を渡っていくのだ。
写真は現在、国・奈良県・奈良市の指導で進められている興福寺防災施設事業にともなう放水テストの状況。

月刊『目の眼』2015年8月号

Auther

コラム|奈良 風のまにまに 5

多川俊映 (たがわ しゅんえい)

興福寺貫首「天平の文化空間の再構成」を標榜し、一八世紀初頭に焼失した中金堂の平成再建を目指している。著書『唯識入門』『合掌のカタチ』『心を豊かにする菜根譚33語』など。

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