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稀代の美術商  戸田鍾之助を偲ぶ

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稀代の美術商  戸田鍾之助を偲ぶ

 

江戸時代から続く老舗茶道具商 谷松屋戸田商店。その当主として辣腕をふるい、日本のトップの美術商へと押し上げた戸田鍾之助氏が他界されて一年が経つ。氏の功績は、目利きであったということだけでなく、茶道具というものが包含する美の力を、その豊かな表現力で広くわかりやすく現代の人々へ伝え、繋げたことにあるだろう。

 

また鍾之助氏は、男性からも女性からも愛された人間的魅力にあふれた人物だった、とよく知る人は振り返る。

 

今回は、美を愛し、茶を愛し、人を愛した戸田鍾之助という稀代の美術商の生き様を紹介したい。

 

 

*この対談は目の眼2013年8月号に掲載されています

 

 

 

先代・鍾之助氏の一周忌法要を終えた5月某日。十二代目当主の戸田博さんが、父を偲んでごく私的な追善の茶席を設けた。客は両氏と縁の深い官休庵 武者小路千家後嗣 千 宗屋さん。ともに鍾之助氏の薫陶を受けた亭主と客が、ゆかりの深い道具としつらいに囲まれて、茶と美に生きた故人を語ります。

 

 

父に捧げるしつらい

 

 本日はお招きいただきありがとうございます。鍾之助会長を偲ぶ特別なお席にお呼びくださって感謝しております。

 

戸田 こちらこそ、ありがとうございます。今日は父を偲んで、思い出深い道具たちでしつらいをしてみました。この日のために何点か拝借したものもありますが、単に父が手がけたというものだけではなく、私なりの工夫も加味して取り合わせております。

 

千 なるほど、鍾之助さんの好みの再現ではなく、それを引き継いだ博さんが今どうあるか、という想いを見せていただけるわけですね。それは、この寄付のお軸からもしっかり伝わってきます。

 

 

戸田 寄付には装飾経を掛けてみました。彩箋経と呼んでいますが、他に類例がないものです。書かれている経文はあなたから教えていただいた通り、妙法蓮華経の神力品第二十一という、法華経では大切なお経です。

 

 彩色した下絵の上に経典を書写するという、装飾経のなかでも実に手の込んだものです。五島美術館にある「観普賢経冊子」とか、四天王寺にある扇面の法華経冊子の流れにあるものでしょうか。

 

戸田 絵は、どうやら平安に入るのではないかと思っております。

 

 非常に繊細ですね。平安の人物画は毛描きがたいへん細かいのが特徴ですが、この絵も神経の行き届いた細やかな表現がなされています。字の調子を見ると、書写されたのは平安末から鎌倉初頭でしょうか、ピリッとした字というより少し柔らかな印象を受けますね。この表具は博さんが?

 

戸田 ええ、表具は私がしました。仕上がったところを父に見せたいと思っておったのですが、残念ながら間に合わなかったものでして、しばらく掛ける機会がなかったのですが、本日あなたをお迎えして父を偲ぶという場にはふさわしいのではないかと思い、掛けてみました。

 

 私も好きなところですので嬉しいですね。本来ならば本席にかけてもしかるべきお軸ですが、それを寄付に掛けられるとは、今日のお席がやはり深い想いに満ちているのだな、と改めて実感します。

 

戸田 ええ、最初はなぜか真ん中でスパっと切れてました。不思議なものだな、と感じました。

 

 楽を奏でる三人の童子が描かれていますね。奏楽で場を清める雰囲気も感じられて、清々しい気持ちになります。

 

 

旅立ちを見送る

 

 そして本席は墨蹟ですか……、戸田さんのお席で墨蹟というのは珍しいですね。

 

 

戸田 そうですね、父は歌切をよく使いましたが、ここでは雲耕慧請の墨蹟を掛けました。僕自身がこの文章に感動しているところがあって、ぜひ見ていただきたかったんです。

 

 「大唐の国裏」という書き出しで始まって「禅師に親しく龍澤に至って龍を見ず 汝に負き吾に負き 但、問う莫かれ 一帆春風に籍って帰る」とここまでが偈で、「侍者日本へ帰る前に陽山尊相に送る 慧靖拝手」とありますね。

 

戸田 これは円爾(鎌倉時代中期の臨済宗の僧で、嘉禎元年(1235年)に宋へ渡って無準師範の法を嗣ぎ、仁治二年(1241年)に帰国、のちに東福寺の開山となった)が日本へ帰るとき、贈られた書です。南宋の頃という時代がはっきりしているのが魅力です。ただ、この書を贈った雲耕慧請という人がどういう人なのか、史料がなかなか出てこないのですが、おそらくその当時、無準師範の周辺にいた人であろうと思います。上の角印に慧請とあり、下は東福寺普門院の印です。

 

 まさに送別の偈ですね。

 

戸田 ええ、この偈に私が父を送る気持ちが重ねられるんです。

 

 春風によって日本へ帰る、という情景が想起されて、流れるまま、というような追善の気持ちにもまた響いてきます。南宋の書ということですが、堂々としたなかにどこか柔らかさもあって魅力的な字です。

 

戸田 南宋の墨というのは質が良いらしく、この墨蹟もいい色を保っています。これが元の時代に入ると墨色を保てなくなるんです。

 

 そしてお軸の下には、経筒に泰山木が入れてありますね。この墨蹟との出会いが堂々として素敵だな、と拝見しました。

 

戸田 花がよく合ってくれました。

 

 この経筒は團家旧蔵のものですね、鍍金がよく残って本体も蓋も装飾的でよほど位の高い貴族が作らせたものでしょう。時代はこの墨蹟よりも少し先行するでしょうか、平安末の院政期のものだと思います。

 

戸田 そうです。

 

 追善だから経筒、という単純な取り合わせではないような気がします。

 

戸田 その通りです。追善だから仏めいたものを使ったわけではなくて、この経筒そのものの美しさが、今日の花と軸によく合うだろうと思ったので実践してみたんです。理屈をつけるならば、追善というよりも今回はタイムカプセルのような意味で使っています。経筒というのは末法思想から生まれたもので、自分の望みを書いて次世代へと送るためのものでした。

 

 私から見ると、次の世代へとつなげていく、という意味も感じられて、追善という過去を想う心だけでなく、未来をみつめる視線というものを感じました。

 

戸田 そうですね。

 

 墨蹟と経筒の取り合わせは、今まであまりなかったことですから新鮮でした。墨蹟の内容も、別れを惜しむというより、修行を終えて旅立たせる喜びとか希望のようなものが感じられて見事に呼応しているなぁ、と思いました。

 

戸田 ありがとうございます。

 

 鍾之助さんといえば歌切をよくお使いになっていたのを思い出しますが、鍾之助さんが歌切や消息の取り合わせを得意とされていたのは、やはり名古屋のお茶の薫陶を受けておられたからでしょうか?

 

戸田 そうですね、森川(如春庵)さんの影響を大いに受けていますから、歌切や消息については強い人でした。

 

 歌切と美濃ものにひとつの評価を定められ、さらにそれを高めた功績は大きいと思います。また表具の名人でもありましたね。

 

戸田 それも森川さんからの影響かもしれませんね。

 

 森川さんと直接の交流があったとうかがいましたが?

 

戸田 父がまだ小僧の頃でしたので、直接教えを受けるというより、見て学ぶといった感じだったのでないでしょうか。

 

 茶道具商として立ったあとも何かにつけ森川さんは意識される存在だったのでしょうか?

 

戸田 そうだと思います。

 

 

名碗─唸らせる茶碗、罪深い茶碗

 

戸田 茶碗は「初霞」を用意しました。

 

 

 久しぶりに拝見しましたが、改めて見ますと梅花皮がすごいですね。まんべんなく高台内まで入ってて。

 

戸田 青井戸でここまで端正な梅花皮は他には見ないですね。

 

 端正なものですが、景色も豊かで端正過ぎないところが魅力です。

 

戸田 まさに父好みの茶碗ですね。

 

 鍾之助さんはいつ頃からこの茶碗をお持ちでしたか?

 

戸田 かなり古い頃から持っていました。『大正名器鑑』に所載されていますから昔から評価が高かったのでしょう。貴重なものですね。

 

 鍾之助さんは青井戸をよく扱っておられましたね。

 

戸田 あなたもよくご存知でしょうが、青井戸は、大井戸よりもお茶に使いやすい茶碗なんですね。

 

 そうですね、気がきいている茶碗だと思います。大井戸だと格式張ってしまいがちですが、青井戸は存在感がありながら、瀟洒な一面もあり取り合わせもしやすい。

 

戸田 そういった意味で青井戸は、取り合わせの主役になりうるトップの茶碗ですね。

 

 でもこの青井戸は、よくある横に広がったタイプとは違いますね。

 

戸田 杉形といいまして、横にではなく縦に立ち上がった深さのあるタイプですね。

 

 高台も少し高めで、高台まわりの梅花皮の調子や、全体のプロポーションは、どちらかというと大井戸を小振りに、頃合いの寸法にしたような風情が感じられます。

 

戸田 僕らの業界でいうところの「ちょっと唸らせる茶碗」やね。

 

 格と雅味の両方を併せ持っている茶碗って意外と少ないのですが、この茶碗は高いレベルでバランスのとれた良い茶碗だと思います。

 

戸田 僕が若い頃から父の手元にあって愛用しているのを見ていましたから、僕にとってこの茶碗は名碗の一つの見本となっています。

 

 確かに名碗です。しかし青井戸としては規格外といえるでしょうね。この茶碗は青井戸のお手本というよりは、いいお茶碗の見本といえます。

 

戸田 この釉がかりの景色などは、なんとなく「六地蔵」(泉屋博古館蔵)を思い起こさせます。いや六地蔵と似た茶碗というのではなく、明らかに違うタイプなんですけど、風情といいますか見た時の印象が六地蔵を想起させるんですね。

 

 六地蔵も小深いタイプですし、クオリティが同じ線上にあるものなんでしょうね。

 

戸田 そうそう。

 

 確かに六地蔵も、古井戸としては規格外ですものね。これは鍾之助さんから直接うかがった言葉ですが、「名品とは偏ったものである」の言を思い起こさせます。

 

戸田 優等生よりもやや崩れたというか、アウトローの茶碗のほうが見どころがあるんですよ。

 

 見どころというのは結局、並外れた個性なんですね。他に類を見ない何かがあるからこそ惹きつけられる。実は私にとってもこの茶碗は思い出深いものなんですよ。

 

戸田 そうでしたか。

 

 私が比叡山での修行を終えて、下山した際、戸田さんがこの茶碗で一席構えて家元で待っていてくださった思い出があります。

 

戸田 ああ、そうでしたね。

 

 百日ぶりに飲んだお茶が、この茶碗でした。

 

戸田 百日かけて煩悩を払ってきたはずが、この茶碗を手に持って……(笑)

 

 一瞬にして煩悩が戻ってきたという(笑)

 

戸田 罪深い茶碗ですな(一同笑)

 

 初霞を見るたびに、私はそれを思い出すんですよ。ちなみにその際に掛けて戴いた掛け物が『戒』の大字だったことも今思っても意味深です(笑)

 

 

茶杓好きの鍾之助氏が愛した異形の茶杓

 

戸田 茶杓は金森宗和作の阿満小舟です。

 

 

 

 これは実に魅力的な茶杓ですよね。茶杓という道具をはなれて一つの造形物・彫刻としてみても興味深いものです。

 

戸田 高原杓庵さんが、これを見ると「姫宗和」という謂は当を得てないのではないか、とよく言われるんですが、いかにもグロテスクな形です。

 

 仁清に代表される金森宗和の作る好み物が優美であることから「姫宗和」とも呼ばれますが、これはそのイメージとは結びつかない作ですよ。宗和も元は飛騨の山深い地から出た武将ですから荒っぽいところも持ち合わせた人だったのでしょうね。撓めなんかはまるでペンチで曲げたようにパキンパキンしています。

 

戸田 釣り針の先のような印象を与えるものですから阿満小舟という銘がつけられたということですね。

 

 造形もさりながら、竹自体に景色があって見どころの多い茶杓ですね。宗和の茶杓では昔から有名で、平瀬家伝来のものですね。筒描きも奔放で、普通は正面に書くところを皮を残して避けて、横に書かれてあります。

 

戸田 かなりの自由人であったのでしょうね。

 

 鍾之助さんは茶杓がとくに好きでしたよね。

 

戸田 ええ、父は茶杓フェチといってもいいほどで、過去にはいろいろ扱わせていただきました。

 

 なかでもこれは平瀬家伝来ではありますけど、次第とか伝来というよりもモノ自体の面白さに魅了されておられました。筒と杓と作者すべてが高い次元で呼応している一品です。櫂先も扁平にして削り損なったのか折れてしまったのか、キュっと斜めになっています。それを二段撓めの造形によってバランスよくまとめていますが、かなりクセのある仕上がりになっています。

 

戸田 これはわざとでしょう。この造形は偶然でなくて自分の意図で創りだしたものだと思いますね。

 

 

茶入のあるべき本分

 

戸田 茶入は古瀬戸小肩衝というもので、伊達家に伝わったことから別名仙台肩衝と通称されています。

 

 

 一見して唐物風の端正なかたちですね。古瀬戸も最近の研究では実際の製作年代が下がるようで、中興名物はほとんど遠州と同時代だといわれていますが、これは室町まで遡る古瀬戸ですね。たとえば藤田美術館所蔵の遠州所持「在中庵」という茶入に通じるものがありますね。

 

戸田 いい裂が三種添っています。

 

 青木間道、望月間道、紹智裂ですか。和物の茶入でありながら唐物青貝花鳥文の盆が添っていて格が高いものですね。端正で、格も高く、見どころもあるという点では、先ほどの初霞と同格に位置するものですね。

 

戸田 そうなんです、この茶入は初霞とよく合うなあ、と僕はいつも思っているんです。とくにこの茶入は小振りなもんですから盆を添わすことが多いんですが、ちょうど初霞の大きさとバランスよく取り合わせられるんですよ。こうして並べてみると、非常にプロ好みの取り合わせになりますね。

 

 静かでありながら、見どころもあり、茶入のあるべき本分というものがよく分かります。鍾之助さんも、取り合わせに関して巧者な方でした。

 

戸田 父は、取り合わせこそ命と考えていた人でした。名品を活かすも殺すも取り合わせ次第、取り合わせを一歩間違えたら台無しになる、とよく言っておりました。

 

 

規格外の人

 

若き日の鍾之助さん(戸田家提供)

 

 私が初めて鍾之助さんときちんとお話させていただいたのは大学生の頃でしたが、鍾之助さんは私の年代の頃にはもう戸田商店に入られてたんですよね。

 

戸田 父が戸田家に入ったのが二十一のときでした。実家は名古屋の老舗茶道具商・宇治屋で、戦後すぐに婿養子に入ったんです。父の偉いところは、古いしきたりに満ち満ちていた時代に、昔気質の先輩同業者に囲まれていながら、そうした旧弊や悪い商習慣をどんどん取り除こうとしてきたことですね。

 

 そうですね。単に儲かればいいという姿勢ではなく、名品を次代へつなげるという仕事の素晴らしさを伝えようとされていました。モノを通して見識を扱っておられるようなところがありましたね。

 

戸田 これは余談ですが、昔ゴルフ場である名家の有名な人物に偶然会ったときに「おお、最近は道具屋もゴルフをやるかね」と言われたそうなんです(笑)。その方も悪気があって言ったんじゃないと思いますが、父は、日本にゴルフを紹介した高畑誠一(元日商岩井会長)さんとか、乾豊彦(元乾汽船会長・日本ゴルフ協会名誉会長)さんたちとの関わりで、ゴルフをやっていたんですね。でもそういう風に言われるのは、世間での道具屋のポジションが低いからだということを痛感して、見識とプライドを持って美術品を商おうと努力したし、また周りを啓蒙していきました。

 

 自分自身の確たる見識がないと、モノ本来の魅力ではなく、伝来や箱書といった付属情報にどうしても頼ってしまいますから、モノを鑑識するために自分の見識というものを確立しようと努力されたのでしょうね。

 

戸田 美術商としての姿勢もそうですが、人間としてクオリティが高い人だなと、子供の頃から思っていました。とても追いつけそうにない、追い越すことも不可能だと感じるほど、厚みのある人間でした。何をしてもうまく、そして面白くした人でした。

 

 偉そうにされているところを見たことがない、いつも気さくな方でしたね。

 

戸田 おもしろい人生だったと思います。一般の方の二倍は濃い人生を送ったのではないでしょうか。

 

 若いころの逸話もスゴイですものね(笑)

 

戸田 父はね、十八の時から芸者さんと同棲してるんですよ。その頃から闇市でかなり儲けていたんです。ある会社へ勤めましてね、就職してすぐにそこの上役が戦争に召集されて、入社半年で倉庫長となったそうです。その倉庫の中には軍需用の銅線が大量にありましてね、それを転売して大儲けしたんです(笑)

 

 スケールが大きいですよね(笑)

 

戸田 父に言わせると、世間では銅線がなくてみんな探し回っているのに、倉庫には山ほど眠っているんだと。年一回のチェックまでに戻しておけばいいんだから有効に活用したんだと言っておりました。それで大儲けして、大いに遊び倒していたそうです。しかしやがて召集令状が来て二十一で戦争へ行くんですが、そのとき、同棲していた女性に「自分はもう死んでしまうから、これで生きて行きなさい」とそれまで稼いだお金をぜんぶあげて、そして自腹で祗園を総上げした大宴会をやって出征したんですが、半年くらいで疫痢に罹って帰ってくるんです。ただ、そのとき疫痢に罹ってなかったら船に載せられて戦死してたはずでした。

 

 で、祗園に帰ってきたら、その女性は鍾之助さんからもらったお金に一切手を付けずに待っておられたんですよね。

 

戸田 そうなんです。でも結局すべてその女性に授けて、そして一文無しになったところで戸田への養子縁組の話がきたんですね。最初はラッキーと思ったらしいですよ(笑)で、すぐに結婚して大阪にきたら戸田家は借金だらけだった。蔵には何もなかったんですね。義父となった戸田露綏……私の祖父さんは、道具を売っては土地を買っていたそうです。だから土地はあちこちに持っていたけど借金も多かったという状態でした。

 

 今だったらその土地だけですごい資産になったでしょうね。

 

戸田 数万坪という単位で土地を持ってましたが、戦後のドサクサでみんなその土地に勝手に住んでるんです。家賃は適当にしか入ってこないし、先住権が強かった時代でね。固定資産税もかかりますし、なんとか少しずつ処分していって、父はそこから立て直していったわけなんです。

 

 つまり、戸田家にあった道具や資産に頼った訳ではなく、何もないところから立て直したわけですから、並大抵の努力ではないですよね。

 

戸田 昭和37年に株式会社化しましたが、関西の道具屋としては最も早い時期だったのではないでしょうか。眼が利いて、経営者としての力もセンスもあったんでしょう。

 

 そしてヒトやモノに対する深い愛情もあって、茶人としても数寄者としても一流を貫かれました。

 

戸田 関西の経済人ともつきあって一目置かれていました。美術品やお茶のつきあいもあったと思いますが、とくに夜の街であまりに有名だったので、ついたあだ名が「夜の理事長」(笑)ある映画監督に、君を主役にして一本撮りたいんだが、と誘われたらしいんだけど、道具屋のほうが儲かりそうですね、って断ったこともあったようです。

 

 あらゆる面で規格外の人だったんですね。先ほどの茶碗の話ではありませんが、何より鍾之助翁ご自身が人として「名品」だったと思います。今日は本当にありがとうございました。

 

『目の眼』2013年8月号 特集〈戸田鍾之助を偲ぶ〉

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