世界の古いものを訪ねて#12

ダブリンの世界一美しい図書館。がらんとした「ロング・ルーム」で考える人生の余白

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初めての海外での年越し。お正月らしいことは特にしませんでしたが、ツリーが撤去され、少しずつ日常の顔を取り戻し始めたトラファルガー広場を抜けて(「ロンドンのクリスマスより。戦後から続く街で一番控えめなツリー」)ナショナルギャラリーへ向かうと、なんとなく、新年を迎えたのだなという実感がふつふつと湧いてきました。

2026年、午年ですね。

 

 

 

 

 

 

 

ジョージ・スタッブスの『ホイッスルジャケット』は、ここに来るたびに見入ってしまう一枚。ほとんど等身大の馬が、金色一色の背景のなかに大胆に描かれており、その思い切りのよさにいつも気持ちが高まります。私も、今年もまた駆けるように、しかし一つひとつの景色を慈しみながら、旅を楽しみたいものです。

 

 

 

 

 

ただ、新しい旅を始める前に、まずは昨年の暮れに訪れたダブリンの旅を記録したいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

もともと映画「ONCE ダブリンの街角で」のファンだったこともあり、いつかは訪れたいと思っていたダブリン。その近さから後回しにしていたのですが、12月に急きょ数日間のお休みができ、この機会にと出発数日前に決めました。特に目的を決めず、文字通りふらっと。

 

計画のない旅は、後悔を生むパターンと、良い余白につながるパターンと2つあると思うのですが、ダブリンは後者。そういう旅の仕方こそ正解な場所だったと感じています。

 

 

 

 

 

 

実はダブリンについて「ロンドンを小さく地味にしたような感じだよ」と聞いたことがあったのですが(ちょっと失礼!)、ダブリンはロンドンとはまったく異なります。たしかに、パブ文化や二階建てバス、建物の雰囲気など似たところはありますが、そのそれぞれにダブリンだけの色があり、その微妙な差が、ならではの魅力を作り出している。パブはビールを浴びる場所というよりは仲間と音楽を楽しむ場所として欠かせない存在だし、二階建てバスはグリーンとイエローでダブリンのシンボルであるクローバーを彷彿とさせ、建物の扉はロンドンでは見かけないようなカラフルな色であふれています。街の中心に川が流れている点も似ていますが、とても穏やかで、流れている時間そのものがゆっくり。到着してすぐに、この場所が好きだなと気がついた私は、ただ歩いているだけで楽しいという最高の旅の状態にいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マップも開かずに散策を楽しんでいたところ、沢山の人が吸い込まれていくのが気になって訪れたのが、トリニティ・カレッジです。一歩足を踏み入れると街の喧騒はふっと遠のき、歴史の重みを湛えた石造りの学舎に囲まれました。

 

 

 

 

 

 

 

 

流れに乗った先にたどり着いたのは、「The Book of kells Experience」と呼ばれる展示室です。

 

 

 

 

 

 

そこでは、アイルランドの至宝と呼ばれる「ケルズの書(The Book of Kells)」が保管・展示されていました。「ケルズの書」とは、8世紀頃に修道士の手によって、羊皮紙の上に細密な装飾と色彩で綴られた聖書の写本。それは単なる書物というより、この国の信仰と知性の執念がかたちになったような存在です。

 

そして、その貴重な写本を鑑賞したあと、二階へと続く階段を上がり視界が開けた瞬間に目に飛び込んできたのが、この場所のもう一つの、そして最大の見どころ。全長65メートルに及ぶ圧倒的な回廊、オールド・ライブラリーの「ロング・ルーム」でした。

 

 

 

 

 

 

18世紀から続くこの空間は、世界で最も美しい図書館の一つとも呼ばれています。

 

高い天井まで届くオーク材の本棚。そこに整然と並ぶ、深い色の背表紙を纏った数え切れないほどの古書。梯子がかけられている本棚は、小さい頃に憧れた「美女と野獣」の本棚を思い起こさせます。まるで物語の世界に迷い込んだかのよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

ただ、現在「ロング・ルーム」では大規模な修復プロジェクトが進んでおり、所蔵書の多くは外に持ち出されていました。このプロジェクトは2028年頃まで続くそう。長い年月を経て傷んだ約20万冊もの本を一冊ずつ丁寧に取り出し、クリーニングして未来へと繋いでいく。その過程で棚の多くは本が抜き取られ、がらんとしていたのです。

 

 

 

 

 

 

せっかくなら、古書で埋め尽くされた様子を見たかった。……そう感じるだろうと思っていたのですが、がらんとしたその風景は、意外にも、そこに流れてきた時間の重みをかえって際立たせていました。時間をたっぷり吸い込んだ木は、今ひとたび荷を降ろし、深呼吸して、また沢山の本を抱えて生きていく。この場所の歴史から見れば、ほんの一瞬の、貴重な休息の時間に立ち会えたことで、私は自分の人生における余白について考えました。

 

 

 

 

 

 

人生を「ロング・ルーム」に例えるなら、それは思い出や知識、そして出会いを、その本棚に埋めていくような作業かもしれません。大切にコレクションしてきた価値ある遺産は、ずらりと並んでいるだけでも圧巻だし、壊れるのが怖いからあまり外に持ち出したくないけれど、時々は一冊ずつ取り出して、埃をとり、必要であれば修復して、さらに未来へ残すための工夫をしなければいけない。がらんとした状態に満ちた希望のようなものを見て、こういう余白の感じ方もあるのだなと、私は驚いていました。がらんとした景色が寂しさに繋がらない場合もあるのですね。

 

 

 

 

 

 

通路の両脇には、この学び舎にゆかりのある哲学者や科学者たちの白い胸像が並んでいます。長らく男性の肖像だけが置かれていたこの場所に、最近になって初めて四人の女性の胸像が加わったのだそう。

 

新しく瑞々しい質感の女性たちの胸像は、本物のネックレスが付けられていたりと、デザインもなんだかモダン。ずっと昔からこの場所を見守っている先輩胸像との見比べも面白いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

数世紀にわたって積み上げられてきた歴史のレイヤーの上に、今という時代の新しい層が重ねられている。そしてそれは、この先も更新し続けられていく。古書が、本棚が、建物全体が呼吸するなかで、私も自分の中の余白に期待して、深呼吸しました。古い紙か、乾いた革か、あるいは蜜蝋か、甘いようなどこか懐かしい香りがした気がしました。

 

 

 

 

 

 

建物を出て、曇り空の下パブへ。ダブリンといえば、ギネスビール。漆黒の液体の上に、真っ白できめ細かな泡が完璧な比率で重なります。

 

 

 

 

 

 

そういえば、グラスに刻まれたハープのマークは、アイルランド最古の「ブライアン・ボルの竪琴」がモデルとなっており、これもまたロング・ルームに展示されていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

これから先ギネスビールを飲むたびに、きっと私は「ロング・ルーム」のあの香りを思い出し、人生の余白を改めて味わうことができる。今まさに未来へと繋ごうとしているがらんとした、しかし満ち足りた美しい本棚は、私自身のこともまた、未来へと繋いでくれるようでした。

 

この先、古書がぎっしりと並んだ「ロング・ルーム」を再訪する時、私の本棚はどのくらい埋まっているのだろう。自分だけの美しい本棚を作りに、今年も日常と旅を楽しもうと思います。

 

 

 

 

 

Auther

山田ルーナ

在英ライター/フォトグラファー

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