祖父の思い出

近衞忠大

クリエイティブ・ディレクター

 

毎年12月が近くなると祖父のことを思い出す。子供の頃「青山のおじいちゃま」と呼んでいた祖父が12月2日生まれだからだ。青山というのは赤坂御用地のことで、祖父というのは三笠宮崇仁親王の事。

 

外では「殿下」とお呼びし、敬語でお話ししていたので祖父と孫としては少々不思議な関係性だが、私にとっては子供の頃から可愛がってもらった「おじいちゃま」だ。

 

毎年12月2日の御誕辰(誕生日)には家族や友人が集まりお祝いをするのが慣例で、普段なかなか会えない従兄弟達に会うことや、その時に振る舞われるシチューやポテトグラタンなどが楽しみだった。

 

百歳の生涯を全うされる直前まで頭脳明晰で健康。軍人でいらしたからなのか常に姿勢が良くキビキビとされ、一方で学者らしく博識で、そして何より好奇心が大変旺盛でいらした。

 

食事時、召し上がるのが極めて早くていらっしゃるのですぐに食べ終わり、他の家族の話に耳を傾けていらしたかと思うと急にお立ちになる。しばらくして分厚い書籍を片手に戻ってこられると、先ほどの話題に出てきた事象を解説して下さる。とにかく気になったら調べないと気が済まない性分でいらっしゃるのだ。

 

学者としては古代オリエント研究の第一人者で、歴史学者でいらしたが、常に新しいものにも目を向けられていたのもとても印象的だった。早くからワープロやパソコンを使いこなし論文を書かれていたのを憶えている。またビデオデッキもベータとVHSの両方があった。中学生時代、我が家では深夜帯にテレビなぞ…という空気だったので、ベストヒットUSAやカーグラTVといった深夜帯の番組を録画していただいていた。

 

戦後フォークダンスの振興にも力を入れられ、自らもダンスの名手だった。ジャズダンスや花柳流の日本舞踊もされたが、驚いたのは40歳くらいからはじめられたアイスダンスだ。小学生の時にスケートの大きな大会で、エキシビションに颯爽と登場されたのを鮮明に覚えている。

 

あらゆる面で超人的だった祖父だが、何より強く印象に残っていることは戦争に対する思いだった。言葉として聞いたことは無いが、ただ子供でも感じる何かがそこにはあった。割り箸でつくったゴム鉄砲で遊んでいた時、祖母がそっと私に「殿下の前では……」と耳打ちした。敢えて取り上げたりはされなかったが、戦争やそれを想起させるものを断固として許さない空気がそこにはあった。

古代ヘブライ語を解し、オリエント史が専門の祖父が痛ましい中東の惨状をいまどう思っているのだろうか。

 

 

*近衞忠大さんの連載「雪山酔夢」は雑誌『目の眼』で連載中。過去のコラムはこちらからご覧いただけます。

月刊『目の眼』2024年12月号より

Auther

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