展覧会レポート|大英博物館「広重展」

名所絵を超えた“視点の芸術”が、いま問いかけるもの

Calligraphy & Paintings | 書画

ロンドン大英博物館

 

大英博物館で開催されている歌川広重の大回顧展「Hiroshige: Artist of the Open Road(広重:旅の芸術家)」を訪れた。初夏のロンドンの気配を感じる写真とともに、日本人の私が展示を通じて感じたことをレポートする。会期は9月7日まで。

 

 

 

ロンドンの街中に浮かぶ“江戸の空”

 

最寄りのトッテナムコートロード駅を降りると、そこには江戸の空が広がっていた。

 

 

ロンドン大英博物館

 

 

ロンドン大英博物館

 

 

The Now Buildingの巨大三面スクリーンに映し出されるのは、歌川広重の《冨士川渡舟》をもとに再構成されたインスタレーションだ。突如広がる異世界に、仕事中のビジネスマンも観光客も皆一様に足を止め、スマホを向ける。

 

 

ロンドン大英博物館

 

 

ロンドン大英博物館

 

 

これは、現在大英博物館で開催中の展覧会「Hiroshige: Artist of the Open Road」と連動した映像作品。浮世絵に包まれるような偶然の体験を経て、より高鳴る気持ちを胸に、大英博物館へと向かった。

 

 

ロンドン大英博物館

 

 

 

 

Hiroshige: Artist of the Open Road

 

5月1日から9月7日まで大英博物館で開催されている「Hiroshige: Artist of the Open Road」。

北斎展の成功が記憶に新しい同館では、意外にもこれが初の広重回顧展となる。ロンドンでの大規模展としては、およそ25年ぶりだそうだ。

 

 

ロンドン大英博物館

 

 

展示会場は、同館中央に位置するグレートコート・ギャラリー(Great Court Gallery)。一階の喧騒を離れてギャラリー内に足を踏み入れると、ゆったりとした展示室が広がっていた。

 

 

展示風景 © The Trustees of the British Museum

展示風景 © The Trustees of the British Museum

 

 

 

 

広重の旅路を追って

 

江戸後期、火消役人として町を支えながら絵師を志し、やがて風景画を芸術の域へと高めた歌川広重。彼の画業の軌跡をたどる本展示は、初期を象徴する《隅田堤闇夜の桜》に始まり、旅の情景を描いた代表シリーズ『東海道五十三次』『木曽街道六十九次』へと続いていく。

 

 

隅田堤闇夜の桜(1847-8)

隅田堤闇夜の桜(1847-8)

Cherry Blossoms on a Moonless Night along the Sumida River,1847-8 By Utagawa Hiroshige (1797—1858),

Colour-woodblock print triptych, Gift from the collection of Alan, Medaugh to the American Friends of the British Museum

© Alan Medaugh. Photography by Matsuba Ryōko

 

 

木曾海道六拾九次之内 洗馬(1830年代後半)

木曾海道六拾九次之内 洗馬(1830年代後半)

Seba from The 69 Stations of the Kiso Highway, late 1830s By Utagawa Hiroshige (1797—1858),

Colour-woodblock print © The Trustees of the British Museum

 

 

 

海や山を背に往来する人々の姿、また旅そのものの過酷さと豊かさが丁寧に描かれており、来場者はその細やかな表現に食い入るように、気に入った風景画の前で長時間足を止めていた。

 

円を描くように緩やかにカーブした壁面は、グレートコート・ギャラリーの特徴の一つだ。私たちは川沿いを歩くように、湾曲した一筋の青いライトのもと歩みを進める。ふと、広重もまたこうして川沿いを歩きながら風景を見つめていたのだろうか、と考える。さまざまな季節と場所を広重と共に旅しているような気持ちになることができる、工夫された展示構成だと感じた。

 

 

展示風景© The Trustees of the British Museum

展示風景© The Trustees of the British Museum

 

 

 

 

親しみを感じさせる美しい花鳥画たち

 

途中、どこからか聞こえてくる鳥の声に誘われ、風景画を離れて「四方の自然」と名付けられたエリアに歩み入る。そこで鑑賞するのは、広重の人気シリーズの一つである花鳥画だ。

 

鳥の声は幻聴ではなく、実際にこの展示エリアで流れているサウンドである。展示室内で音が流されているのは、このエリアのみ。私たちは鳥の声を静かに聞きながら花鳥画を鑑賞することができるわけだが、この演出により、その美しい動植物たちが決して昔のものではなく、我々にも親しみのあるものであるということを強く印象付けていた。

 

広重の中短冊花鳥図版画は、詩とともに描かれていることが特徴である。これは江戸時代の日本人の識字率の高さを示す重要な資料であるが、それ以上に、当時の人々にとって動植物がいかに大切な存在であったかを示す作品だと言えるだろう。

 

私たちが動植物に美しさを見出すのと同じように、当時の歌人、そして広重もまた、愛情深いまなざしでそれらを見つめていたのだ。

 

左から「紫苑に鶴」「満月に雁」「菊に雉」 全て1830年代初期

左から「紫苑に鶴」「満月に雁」「菊に雉」 全て1830年代初期

Crane and asters (early 1830s) [left]

Three geese and full moon

(early 1830s) [centre]

Pheasant and chrysanthemums (early 1830s) [right]

By Utagawa Hiroshige (1797—1858), Colour-woodblock prints

Left: Gift from the collection of Alan Medaugh to the American Friends of the British Museum

Centre and right: Collection of Alan Medaugh  ©Alan Medaugh. Photography by Matsuba Ryōko

 

 

 

 

生活のそばにあった鮮やかな「広重ブルー」

 

また「夏の風を受けて」と題された団扇の展示も魅力的だ。

 

江戸の夏、庶民にとって団扇は生活の道具であり、一夏限りの消耗品だった。だからこそ、現存するものはごくわずか。しかし、広重はその団扇に500点以上の絵柄を残しているという。

 

 

富士山と音止めの滝(1849-1852)

富士山と音止めの滝(1849-1852)

Mt. Fuji and Otodome Fall, about 1849-52 By Utagawa Hiroshige (1797—1858), 

Colour-woodblock print, Collection of Alan Medaugh © Alan Medaugh. Photography by Matsuba Ryōko

 

 

広重が描いたいくつかの団扇を鑑賞していると、鮮やかな青色のものが多いことに気が付く。

 

「広重ブルー」と呼ばれる青色があることをご存じだろうか。広重が作品に愛用した透明感のある青で、ドイツ・ベルリンで生まれた人口の顔料「ベロ藍」を用いて描かれる色だ。ベロ藍はまたの名をプルシアンブルーといい、かの北斎も多用したことで知られる。日本の風景画といえば、この色を思い浮かべる方が多いだろう。

 

その青は、江戸時代の人々を熱狂させたのだそうだ。かつて見たことのない鮮やかな青。美しいグラデーション。生活の道具である団扇に多く用いられていることからも、その大流行ぶりがうかがえる。

 

「広重ブルー」の団扇で涼んでいた当時の人々が羨ましい。生活のすぐそばにあるその絵を通じて、人々は毎日をより鮮やかに感じられたのではないだろうか。

 

 

東海道秋月 武州神奈川台之図/1839年頃

東海道秋月 武州神奈川台之図/1839年頃

Tōkaidō Autumn Moon: Restaurants at Kanagawa, Musashi Province, about 1839

By Utagawa Hiroshige (1797—1858), Colour-woodblock print Collection of Alan Medaugh  © Alan Medaugh

 

 

 

「名所江戸百景」にみる旅の視点を現代にも

 

展覧会後半で登場するのは、晩年の代表作《名所江戸百景》シリーズである。

 

構図は一層大胆に、色彩はより豊かに。現代においても見る者の目を釘付けにする彼独自のスタイルが、江戸時代の人々にとってどれだけセンセーショナルなものであったか、想像に難くない。

 

なおこのシリーズには、よく知られる観光名所だけでなく、知名度の低い場所も数多く取り上げられている。《名所江戸百景》シリーズは、それまで情報的・実用的であった名所絵というジャンルにおいて、個人の視点と美的構成を全面に押し出すことで、風景画を一つの芸術作品へと昇華させた画期的な作品群だと言えるだろう。「見る」という行為そのものを主題としていると表現しても、過言ではないかもしれない。

 

展示の最後にもやはり紹介されていたが、その斬新な視点は、国内外問わず後世の作家に大きな影響を与えた。

 

本展では、日本の浮世絵に影響を受けていたことで知られるフィンセント・ゴッホをはじめ、現代作家のジュリアン・オピー、エミリー・オールチャーチなどの作品を鑑賞できる。広重が「見る」という行為に込めた精神は、今も脈々と受け継がれている。

 

六十余州名所図会「阿波 鳴門の風波」(1855年)

六十余州名所図会「阿波 鳴門の風波」(1855年)

Awa: The Rough Seas at Naruto from Illustrated Guide to Famous Places in the 60-odd Provinces, 1855 By Utagawa Hiroshige (1797—1858),

Colour-woodblock print, Collection of Alan Medaugh © Alan Medaugh

 

 

 

私たちは、どう見るか?

 

広重の「視点」に影響を受けるのは、アーティストだけではない。この展示を訪れる私たち鑑賞者もまた、彼の作品を通じて「何をどう見るか」を考えさせられる。没後ほぼ200年が経った今も、その斬新な視点は褪せない。

 

江戸時代末期。広重が生きたのは激動の時代であった。その変化の先に何があるのかも確かには分からない不安定な時代に、広重はただ歩いて旅をし、風景と出会い、残した。その表現は単なる旅の記録を超え、世界を見る手段として、私たちに問いかける。

 

現代もまた、激動の時代と言えるのかもしれない。この時代において、どのような視点で世界を見れば、より人生を楽しめるのだろう。そのヒントを、私は大英博物館での広重展を通じて得たような気がした。

 

ロンドン大英博物館

 

 

本展のタイトルである「Artist of the Open Road」は、旅の芸術家と訳すことができる。広重は旅を愛した作家であったが、もっとも重要なのは、旅そのものや旅先であるかどうかではなく、その時代において何をどう見るかという、確固たる視点にあったのではないだろうか。周りの状況によってブレることのない、独自の視点。それは時に、まだ見ぬ美しい景色を発見するための手段にもなり得る。

 

大英博物館を出て、初夏のロンドンを改めて見渡してみる。そこはいつもより少し鮮やかに、生き生きとして見えた。

 

 

ロンドン大英博物館

 

 

ロンドン大英博物館

 

 

Information

Hiroshige: Artist of the Open Road

名称

Hiroshige: Artist of the Open Road

会期

2025年5月1日(木)~9月7日(日)

会場

大英博物館(British Museum)ジョセフ・ホトゥング・グレート・コート・ギャラリー(Room 35)

住所

Great Russell Street, London WC1B 3DG UK (地下鉄 Tottenham Court Road、Holborn、Russell Square 駅から徒歩圏内)

URL

TEL

+44 (0)20 7323 8181

Auther

山田ルーナ

在英ライター/フォトグラファー

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